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クリシュナムルティの引用

ここには、クリシュナムルティの幅広い引用文集が、見つかるだろう - クリシュナムルティ財団信託の職員により、精選されたものである。それらは、一般的な引用で始まる。それから、主題ごとに(英語の)アルファベット順で編纂されている。「もっと多く」のボタンにより、より長い文章の中での、短い引用文が、示される。また、出典の書き起こしや本の章を読む選択肢も、ある。

一般的な引用

生の全体を理解する。

君は、生の全体を理解しなければなりません - その一部分を、だけではない。そういうわけで、君は、本を読まなければならないのです。そういうわけで、君は空を見つめなければならないし、そういうわけで、君は、歌い、舞い踊り、詩を書き、苦しみ、理解しなければならないのです。そのすべてが、生であるからです。

クリシュナムルティ、Think on These Things(和訳『子どもたちとの対話』)

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質問者: なぜ私たちは、本を読まなければならないのですか。

クリシュナムルティ: なぜ君は、本を読まなければならないのですか。ただ静かに聞いてください。君は、なぜ自分は遊ばなければならないのか、なぜ自分は食べなければならないのか、なぜ自分は河を見つめなければならないのか、なぜ自分は残酷なのかと、けっして訊ねないでしょう。君は、何かをしたくないときだけ、反抗して、なぜ自分はそれをしなければならないのかと、訊ねます。ですが、本を読むこと、遊ぶこと、笑うこと、残酷であること、善いこと、河、雲を見ること - このすべてが、生の一部です。そして、もし君が、本の読み方を知らないなら、歩き方を知らないなら、木の葉の美しさを堪能できないのなら、君は、生きていません。君は、生の全体を理解しなければなりません - その小さな一部分を、だけではない。そういうわけで、君は、本を読まなければならないのです。そういうわけで、君は空を見つめなければならないのです。そういうわけで、君は、歌い、舞い踊り、詩歌を書き、苦しみ、理解しなければならないのです。そのすべてが、生であるからです。

日の入りが来るにつれて、空っぽが来る。

夕方に日の入りが来るにつれて、空っぽが来る - 美しさ、魅惑、豊かさに満ちている。それは、花が咲くのと同じように、自然に来る。

1964年、マドラス、講話7

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精神の空っぽは、制作できません。精神は、空っぽにさせられません。空っぽであるよう、組み立てられません。夕方に日の入りが来るにつれて、よく、その空っぽが、来ます - 美しさ、魅惑、豊かさに満ちています。それは、花が咲くのと同じように、自然に来ます - 恐れがないとき、逃避がないとき、退屈がないとき、探し求めることがないとき、です。それが、すべての中で最も重要なことです - 探し求めることが、あってはなりません。あなたは、見つけられません。あなたは、永久のものを見つけられません。時を越えているものを、あなたは探し出せません。それは、あなたに来るかもしれませんが、あなたは、それへ行けません。なぜなら、あなたたちの精神は、あまりに浅く、些細で、空っぽで、野心、恐れ、醜さ、歪曲に満ちているからです。ゆえに精神は、それ自体を、空っぽにしなければなりません - あれをほしいからではありません。なぜなら、あなたはあれをほしいとき、動機を持っているし、あなたは動機を持った瞬間、自分のエネルギーを失ってしまったからです。ゆえに、無行為の状態にあるのは、完全に空っぽな精神だけなのです。その無行為は、行為です。熱情的であるのは、そういう精神だけなのです。美しさに慣れないで、美しさとともに生きられるのは、そういう精神だけなのです - 樹の美しさ、顔の美しさ、眼の、微笑みのそれ、醜く汚い道路、汚れ、貧しさの美しさ、です。歪曲されないで、それとともに生きられるのは、熱情的な精神だけなのです。冥想の状態にあるのは、完全に空っぽである、そういう精神だけなのです。

あなたは世界である。

あなたは世界であり、世界はあなたである。

1975年、サーネン、講話4

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あなたが世界であり、世界はあなたであることを、あなたは悟ります - 言語的に、ではなく、深遠に、それの真理を、です。あなたはそれを悟ります。そしてあなたは、根本的に変化する無量の切実な責任を、悟り、見ます。なぜなら、あなたは聞いてきたからです - 論争してきたのではなく、意見を通してきたのではない。あなたは、それの真理が見えます。そのとき、残りの世界との、あなたの関係は、何ですか。その根源的な変容があるとき、世界とのあなたの関係は、何ですか。あなたは、何をしますか。または、あなたは、何かが起きるのを、待ちますか。もしあなたが、何かが起きるのを待つなら、何も起きないでしょう。

 で、あなたは世界であり、世界はあなたであるとの真理が、実際に見えるなら - 理論、言語的な主張として、ではなく、現実として、です。あなたは、とてつもない重要性が、見えます - すなわち、基本的にあなた自身を変容させるとき、あなたは、世界の意識の全体に、影響するだろう、ということを、です。必ずそうなります。

私たちは、エネルギーをむだにし、消散する

私たちが様式に順応しようとするとき、それは、エネルギーのむだである。エネルギーを保存するには、私たちは、自分たちがいかにエネルギーを消散させるのかに、気づかなければならない。

1966年、ロンドン、講話5

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良い社会をもたらすには、人間たちが変化しなくてはいけません。あなたと私は、精神のこの根本的な変容をもたらすエネルギー、勢力、活力を、見つけなければなりません。私たちが十分なエネルギーを持たないなら、それは可能ではありません。私たちは、自分自身の中に変化をもたらすには、大変多くのエネルギーが、必要ですが、私たちは、葛藤をとおし、抵抗をとおし、順応をとおし、受け入れをとおし、服従をとおして、自分のエネルギーをむだにします。私たちが様式に順応しようとするとき、それはエネルギーのむだです。エネルギーを保存するには、私たちは、自分自身に気づかなければなりません - 私たちがいかにエネルギーを消散させるのかに、です。これは、長年の問題です。なぜなら、ほとんどの人間は、怠惰であるからです。彼らはむしろ、受け入れ、服従し、従うでしょう。私たちは、この怠惰、この深く根づいた怠けに気づいて、精神と心を速めようとするなら、それの強烈さがまたもや、葛藤になります。それもまた、エネルギーのむだです。

私たちの問題、私たちが持っている多くのものの一つは、このエネルギーをいかに保存するのか、です - 意識に爆発が起きるために、必要なエネルギーを、です。企てられていない、思考により組み立てられていない爆発。このエネルギーがむだにされないとき、自然に起きる爆発です。どの形でも、私たちの存在のどの水準でも、どの深さでも、葛藤は、エネルギーのむだなのです。

私は殺すなら、自分自身を殺している。

私が、アラブ人、ユダヤ人、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、共産主義者を殺すとき - それが誰であっても、です - 私は、自分自身を殺しています。基本的に、あなたがこれを悟るのかどうかと、思われます。

1976年、ブロックウッド・パーク、学校討論会13

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あなたは私です。私はあなたです。それは事実です。世界は私ですし、私は世界です。私は、それを受け入れたくありませんが、それは事実です。私が、アラブ人やユダヤ人やイスラム教徒やヒンドゥー教徒や共産主義者を殺すとき - それが何であっても、です - 私は、自分自身を殺しています。基本的に、あなたがこれを悟るのかどうかと、思われます。これを悟ることは、ものすごいことです。知的に、ではなく、奥深くあなたの血の中で、です。そのときあなたは、何一つ、殺さないでしょう。よろしいですか。そのときあなたは、どの民族、国民でもないでしょう。あなたは、人間です。

空っぽに名づけることなく、それに気づくこと

精神は、空っぽに気づけますか - 名づけることや、それから逃げ去ったり、それを判断したりすることなく、ただそれとともにいるのです。

The Book of Life(和訳『四季の瞑想 クリシュナムルティの一日一話』)

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私たちのほとんどは、おそらく稀にのみ、気づいています。私たちのほとんどは、恐ろしく占有されて、活動的であるからですが、私たちは時々、精神が空っぽであることに、気づいていると、私は思います。私たちは、気づいていて、その空っぽを恐れています。私たちはけっして、その空っぽの状態を、探究したことがありません。私たちはけっして、それに深く深遠に、入ったことがありません。私たちは恐れています。それで私たちは、それから彷徨い、離れて行きます。私たちはそれに、名を付けてきました。私たちは、それは「空っぽ」である、それは「ひどい」、それは「つらい」と、言います。それに名を付けるそのことこそが、すでに精神の中に、反応を創り出したのです - 恐れ、回避、逃げ去ることを、です。

さて、精神は、逃げ去るのを、止められますか - それに名を付けない。それに、空っぽといった言葉の意義を、与えない - 私たちがそれについて、楽しみと痛みの記憶を、持っているものを、です。私たちは、それを見つめられますか。精神は、その空っぽに気づけますか - それに名づけることなく、それから逃げ去ることなく、それを判断することなく、ただそれとともにいるのです。なぜなら、そのとき、それが精神であるからです。そのとき、それを見つめている観察者は、ありません。それを非難する検閲者は、ありません。その空っぽの状態だけが、ある - 私たちがみんな、本当に全く親しんでいるが、私たちがみんな回避していて、それを活動で、礼拝で、祈りで、知識で、あらゆる形の幻影と興奮でもって、充たそうとしているものが、です。ですが、すべての興奮、幻影、恐れ、逃げ去りが、止まり、あなたがもはや、それに名を付けていなくて、よってそれを非難していないとき、観察者は、観察されるものより、異なっていますか。確かに、それに名を付けることにより、それを非難することにより、精神は、それ自体の外側に、検閲者、観察者を創り出してきたのです。ですが、精神がそれに用語、名を付け、それを非難し、それを判定しないとき、観察者はありません。私たちが空っぽと呼んできたあのものの状態だけが、あります。

社会は抽象概念である。

社会は、抽象概念です。抽象概念は、実在ではない。実在であるのは、関係です。人間たちの間の関係が、社会と呼ばれるものを、創り出してきました。

1981年、ボンベイ、講話1

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社会は、抽象概念です。抽象概念は、実在ではない。実在であるのは、人と人との間の関係です。人と人の間の関係が、社会と呼ばれるものを、創り出してきました。人は、暴力的で、自己中心的で、楽しみを探し求め、怯えて、不安全です。人は自分自身では、腐敗していています。親密であっても、なくても、自らの関係において、このいわゆる社会を、創り出してきました。私たちはいつも、社会を変化させようとします - 私たちが生きるところの社会を、創り出す人を変化させないで、です。

死が来るとき

死が来るとき、それは、あなたの許可を求めません。それは来て、あなたを連れ去ります。それは、あなたをその場で破壊します。

1959年、マドラス、講話6

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死が来るとき、それは、あなたの許可を求めません。それは来て、あなたを連れ去ります。それはあなたを、その場で破壊します。同じように、あなたは、憎しみを、全的に落としてしまえますか - 妬み、所有の誇りを、信念へ、意見へ、観念へ、特定の考え方への執着を、です。あなたはそれらを、瞬時に落としてしまえますか。「それの落とし方」は、ありません。なぜなら、それはただ、別の形の継続であるからです。意見、信念、執着、貪欲、妬みを落としてしまうことは、死ぬことです - 毎日、毎瞬間、死ぬことです。瞬間から瞬間に、すべての野心が終わりになることが、あるのなら、そのときあなたは、何でもないとてつもない状態を、知るでしょう - いわば、永遠の動きの深淵に来ることと、へりを越えて落ちることのそれを、です。それが、死です。

私は、死について、すべて知りたいと思います。なぜなら、死は実在であるかもしれないし、それは、神と呼ばれるもの、生きて動くけれども、始まりもなく終わりもない、あの最もとてつもない何かであるかもしれないからです。だから、私は、死について、すべて知りたいと思います。そのために、私は、自分がすでに知っている物事すべてに対して、死ななければなりません。精神は、知られたものに対して死ぬときだけ、知られていないものに、気づけます - 何の動機もなく、褒賞の望みや処罰の恐れもなく、死ぬのです。そのとき私は、生きている間に、死が何であるかを、見出せます。まさにその発見において、恐れからの自由が、あるのです。

私たち自身を理解する。

私は実際に、自分自身を研究しなくてはいけない - 私がありたいと願うように、ではなく、私のあるがままに、である。

Freedom from the Known(和訳『既知からの自由』、『自己変革の方法』)

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私は、自らの自己の全分野に、気づかなければなりません - それは、個人の意識と、社会のそれです。私が、私自身にとって、けっして消えない光となりうるのは、ただそのとき、精神がこの個人的と社会的な意識を越えていくときだけ、です。

さて、私たちはどこで、自分自身を理解しはじめますか。ここに私はいますか。そして、私はどうやって、自分自身を研究し、自分自身を観察し、自分自身の内側で何が実際に起きつつあるかを見るべきですか。私は、関係においてのみ、自分自身を観察できます。なぜなら、すべての生は、関係であるからです。片隅に座って、自分自身について冥想することは、何の役にも立ちません。私は、自分自身では存在できません。私は、人々、物事、観念への関係においてのみ、存在します。そして、外的な物事と人々へ、同じく内的な物事への私の関係を研究する中で、私は自分自身を理解しはじめます。他のあらゆる形の理解は、単に抽象概念ですし、私は、抽象概念において、自分自身を研究できません。私は、抽象的な実体ではありません。ゆえに、私は現実の中で、自分自身を研究しなくてはいけません - 私がありたいと願うように、ではなく、私のあるがままに、です。

あなたの変容は、世界に影響する。

人間としてあなたが、自分自身を変容させるなら、あなたは、残りの世界の意識に、影響する。

1974年、マドラス、講話1

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世の中で起きつつあることを、観察するとき - 政治的な分割、戦争、アラブ人とユダヤ人、ロシア人、シナ人とアメリカ人、常なる緊張、格闘と残忍さ、戦争の脅威、飢餓を、です。そのときあなたは、一断片だけではなく、全体を取らなくてはいけません。あなたは、このすべて、混沌、無量の苦しみを、非個人的に、客観的に見つめるとき - 個人的なものだけではなく、人の集合的な苦しみをも、です - これに対するあなたの答えは、何ですか。あなたは、何と言いますか。あなたは、哲学的な隠語と標語の中へ、撤退しますか。あなたは、そもそも真剣であるなら、これを見出さなくてはいけません - 人間たち、あなたと私は、私たち自身に心理的に、全的な革命をもたらしうるのかどうかを、です。なぜなら、あなたが、根源的に変化するとき、あなたは、世界の意識に影響しつつあるからです。レーニンは、あなたが彼に同意しても、しなくても、世界の意識に影響してきました。スターリンはそうしてきました。ヒットラーはそうしてきました。司祭者たちは、世界の意識に影響してきました - 彼らの信念により、彼らの救い主と、その他すべてによって、です。あらゆる人間は、自分自身に根源的な変化があるとき、世界の意識に影響します。なぜなら、あなたは世界であり、世界はあなたであるからです。あなたは、地理的にも、また心理的にも、インドです。あなたが変化するとき - 表面的な水準で、ではなく、根源的に、根本的に、です - あなたは世界であるから、世界はあなたであるから、あなたは、人類の意識に影響します。それは、事実なのでしょう。ラーマとクリシュナの創案者たちは、あなたたちの意識に、影響してきませんでしたか。もちろん、そのすべてが、あなたたちの意識に、影響してきました。人間としてあなたが、自分自身を変容させるなら、あなたは、残りの世界の意識に、影響します。

自由な精神は、けっして結論しない。

結論に満ちている精神は、死んだ精神です。それは、生きている精神ではありません。生きている精神は、自由な精神です - けっして結論しないで、学んでいます。

1973年、オーハイ、講話3

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あなたは、私があなたに、何をすべきか、どう乗り越えるべきかを語るのを、待っていますか。あなたは、言われていることが聞こえて、そこから結論を引き出すなら、その結論こそが、違った種類の死を、もたらしつつあります - 結論に満ちている精神は、すでに死んだ精神です。それは、生きている精神ではありません。生きている精神は、自由な精神です - けっして結論しないで、学んでいます。同じように私たちは、究明しています。ゆえに、学んでいます。けっして、どの結論にも到ろうとしていません。それが、生のこの動き全体の美しさです。

私たちの一人一人が、この文明を築き上げてきた

私たちの一人一人が、この競争的で非情な文明を、築き上げてきました - その中で人が人と対立しているものを、です。

1945年、オーハイ、講話1(和訳『静けさの発見』)

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あなたは、戦争に責任があります。あなたは、自らの毎日の、貪欲、悪意、情熱の行為により、それをもたらしてきたのです。私たちの一人一人が、この競争的で非情な文明を、築き上げてきました - その中で人が人と対立しているものを、です。あなたは、他の人たちの中の戦争の、野蛮性の原因を、根こそぎにしたいと思います - あなた自身は、それらに耽溺する間に、です。これは、偽善に、そして、さらなる戦争に、繋がります。あなたは、自分自身の中の、戦争の、暴力の原因を、根こそぎにしなくてはいけません。それは、辛抱と優しさを、要求します - 他の人たちに対する血まみれの非難ではなくて、です。

時なく新たになる。

永遠の現在に生きるには、過去に対して、記憶に対して、死がなければなりません。この死の中に、時なく新たになることが、あるのです。

1945年、オーハイ、講話10(和訳『静けさの発見』)

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思考は、現在に作動している、過去の結果です。過去は常に、現在に吹き荒れています。現在、新たなものは、いつも過去により、知られたものにより、吸収されつつあります。永遠の現在に生きるには、過去に対して、記憶に対して、死が、なければなりません。この死の中に、時なく新たになることが、あるのです。

現在は、過去の中へ、そして未来の中へ、拡張します。現在を理解することなしには、過去への扉は、閉じています。新たなものの知覚は、こうも、うつろいます。それが感じられるやいなや、過去の急流がそれを、覆ってしまい、新たなものは、なくなってしまいます。多くの昨日に対して死ぬこと、毎日、新たになることは、私たちが受動的に気づく能力があるときだけ、可能です。この受動的な気づきの中に、自分自身へ集めることは、ありません。そこには、強烈な静けさが、あります - その中で、新たなものが、いつも開いていく。その中で、静寂がいつも、度量をもって拡張しています。

あなたは何も知らないかのように、始めなさい。

あなたが自分自身について知っていることすべてを、忘れなさい。あなたがかつて、自分自身について考えたことすべてを、忘れなさい。あなたは何も知らないかのように、始めなさい。

Freedom from the Known(和訳『既知からの自由』、『自己変革の方法』)

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私たちはともに、私たち自身を、究明しようとしています - 一人の人物が説明していながら、あなたは読んで、ページの言葉を辿ってゆきつつ、彼に同意や不同意をするのではない。ともに旅をする - 私たちの精神の最も秘密の隅々の中へ、発見の旅を、です。そういう旅をするには、私たちは、軽く旅をしなければなりません。私たちは、意見、先入観、結論の重荷を、負えません - 私たちがここ二千年以上の間、収集してきた、あの古い家具すべてを、です。あなたが自分自身について知っていることすべてを、忘れなさい。あなたがかつて、自分自身について考えたことすべてを、忘れなさい。私たちは、まるで何も知らないかのように、出発しようとしています。

革命はあなたと私から始まる。

すべての大いなる物事は、小さな規模で始まります。すべての大いなる動きは、個々人から始まります。もし私たちが集団的な行為を待つなら、そういう行為は、そもそも起きるとして、破壊的であり、さらなる悲惨に資するのです。だから、革命は、あなたと私から始まらなければなりません。

1950年、マドラス、講話3

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私たちの関係すべてにおいて - 人々との、自然との、観念のと、物事との、です - 私たちは、ますます多くの問題を、創り出すように思われます。一つの問題を - 経済的でも、政治的でも、社会的でも、集団的でも、個人的でも、です - 解決しようとする中で、私たちは、他の多くの問題を、導入します。私たちはどうにか、ますます多くの葛藤、抗争を生み育てるし、ますます多くの改革が必要であるように、思われます。明白に、すべての改革は、さらなる改革が、必要です。ゆえにそれは、本当は後退です。左のでも右のでも、革命が単に、あるべきものということに立って、ありつづけたものの継続であるかぎり、それはまた後退です。私たちが個々人として、集団的なものに対する自らの関係を理解するときだけ、根源的な革命、常なる内的な変容が、ありえます。革命は、外面的な、環境的な影響力でもって、ではなく、私たちの一人一人でもって、始まらなければなりません。結局のところ、私たちは集団的なものです。私たちの中の意識的なものと無意識的なものはどちらも、人の政治的、社会的、文化的な影響力すべての残留物です。ゆえに、根源的な、外的な革命をもたらすには、私たちの一人一人の中に、根本的な変容が、なければなりません - 環境的変化に依存しない変容が、です。それは、あなたと私でもって、始まらなければなりません。すべての大いなる物事は、小さな規模で始まります。すべての大いなる動きは、個人としてのあなたと私でもって、始まります。私たちが集団的な行為を待つなら、そういう集団的行為は、そもそも起きるとして、破壊的であり、さらなる悲惨に資するのです。

だから、革命は、あなたと私でもって、始まらなければなりません。その革命、その個人の変容は、私たちが関係を理解するときだけ、起こりえます - それは、自己認識の過程です。

宗教は苦しみを解消したのか。

世界中の組織的な宗教は、規則、修練、態度、信念を、定めてきました。しかし、それらは、人間の苦しみや、深く根づいた心配と罪悪を、解消したのでしょうか。

The Awakening of Intelligence

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世界中の組織的な宗教は、一定の規則、修練、態度、信念を、定めてきました。しかし、それらは、人間の苦しみと、深く根づいた心配、罪悪とその他すべてを、解消してきたのでしょうか。で、私たちは、すべての宗教的な信念、望みと恐れを、脇に置けます。自らは、世の中で起きつつあることに、気づいています - 自らの長、導師、救い主と、自らの神話すべてをともなった、宗教的組織の本性に、です。自らが、そのすべてを脇に置いてしまったなら - なぜなら、自らがそれを理解したし、それの無益さと虚偽を見て、それより自由であるからです - そのとき、一定の事実は、残っています。悲しみ、暴力、恐れと大きな心配です。

あなたが自分自身を知れば知るほど、明瞭さがある。

あなたが自分自身を知れば知るほど、明瞭さがある。自己認識に、終わりはない。あなたは達成しない。あなたは、結論に到らない。それは、終わりなき河である。

The First and Last Freedom(和訳『自我の終焉』、『最初で最後の自由』)

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あなたが自分自身を知れば知るほど、明瞭さがあります。自己認識に、終わりはありません。あなたは、達成に到りません。あなたは、結論に到りません。それは、終わりなき河です。自らがそれを研究するにつれて、ますますそれに入るにつれて、平和が見つかります。精神が平静であるときだけ - 課された自己修練をとおして、ではなく、自己認識をとおして、です - そのときだけ、その平静さの中、その静寂の中に、実在が、生じうるのです。至福がありうるのは、創造的な行為がありうるのは、そのときだけです。この理解なしに、この経験なしに、単に書物を読むこと、講話に出席すること、宣伝を行うことは、こうも幼稚であると、私には思われます - あまり意味のない活動だけです。ところが、自分自身を理解し、よって、あの創造的な幸せをもたらすことが、できるなら - 精神のではない何かのあの体験を、です - そのときおそらく、私たちのまわりの直接的な関係に、変容がありえます。それで、私たちが生きるところの世界にも、です。

信念は、恐れの表示である。

信念を常に主張することは、恐れの表示である。

The Second Krishnamurti Reader

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あなたは、理論を経験し、そのとおりであると言うことは、できます。しかし、それは、カトリックの世界で育てられて条件づけられてきた人が、キリストの幻視をするのに、似ています。明白に、そういう幻視(ヴィジョン)は、彼自身の条件づけの投影です。(ヒンドゥー教の)クリシュナの伝統の中で育てられてきた人たちは、彼らの文化から生まれた経験と幻視を、します。だから、経験は何一つ、証明しません。幻視をクリシュナやキリストだと認識することは、条件づけられた知識から出てきたことです。ゆえに、それはまったく実在でなくて、夢想、神話です - 経験をとおして強められていて、全く無効です。なぜあなたは、そもそも理論がほしいのですか。なぜあなたは、信念を前提にしますか。信念を常に主張するこのことは、恐れの表示です - 毎日の生の恐れ、悲しみの恐れ、死の恐れと、生の全くの無意味さへのそれ、です。これらを見て、あなたは、理論を創案しますが、理論がずるがしこくて博識であればあるほど、それは重みを持つのです。そして、二千年か一万年の宣伝の後、その理論は間違いなく、愚かにも「真理」になります。

世界とは、私たちなるものです。

世界とは、私たちなるものです。

Think on These Things(和訳『子供たちとの対話』)

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君は、世界で何が起きつつあるかを、知っていますか。世界で起きつつあることは、私たちの一人一人の内側で起きつつあることの投影です。世界は、私たちなるものです。私たちのほとんどは、騒動の中にいます。私たちは、取得したがり、所有したがります。私たちは、嫉妬深くて、人々を非難します。それが正しく、世界で起きつつあることです - ただ、もっと劇的に、非情に、というだけです。ですが、君も、君の教師たちもまた、これらについて考えることに、時間を使いません。そして、全的な革命をもたらし、新しい世界を創り出す可能性が、あるのは、君たちが毎日、これらの事柄について熱心に考えることに、幾らか時間を使うときだけです。私は君に保証しますが、新しい世界は、創り出されなくてはならないのです - 同じ腐った社会の、別の形での継続でないであろう世界が、です。ですが、君の精神が鋭敏で、見守り、広汎に気づいているのでないなら、君は、新しい世界を、創り出せません。そういうわけで、君が若い間、これらのきわめて深刻な事柄を考察して、幾らか時間を使うことが、こうも重要であるのです - わずかな教科の学習に君の日々を過ごすだけではなくて、です。それは、職と死以外、どこにも繋がりません。だから、どうぞ、これらのことすべてを、真剣に考慮してください。その考慮の中から、喜びの、幸せのとてつもない感じが、出てくるからです。

分析は麻痺である。

分析(アナリシス)は麻痺(パラリシス)である。

1974年、ニューヨーク、講話1

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私たちは、分析していません。なぜなら、分析(アナリシス)は麻痺(パラリシス)であるからです。(拍手)いえ、いえ。どうぞ、そうしないでください。拍手なさらないでいただけるでしょうか。そのかいは、ありません。重要なのは、あなたがこれを理解し、生きることです - 拍手して、あなたのエネルギーをむだにすることではありません。私が言いましたように、私たちは分析していません。私は、分析の問いに、入らないでしょう。なぜなら、それは、かなり複雑であるからです。私たちは、単に観察しています。あなたは観察するとき、とても多くが見えます。あなたが見ないのは、あなたが分析するときだけです。なぜなら、そのとき、分析者と分析されるものが、あるからです - 分割があるのです。分割があるところ、葛藤があります。ゆえにあなたは、完全には見えません。

自然との関係を失うとき

自らが自然との深い親密な関係を失うとき、寺院、神殿、モスク、教会が、重要になる。

Beginnings of Learning(和訳『学びと英知の始まり』)

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野原を歩いてゆき、(牧場の)踏み越し台を乗り越えて、あなたは、多くの樹々と幾つものアカスギ(セコイア)の木立に、来る。あなたは、そこに入るとき、突然に、その絶対的な静寂に、気づく。一枚の木の葉も、動いていなかった。それは、まるでそこに呪文が掛かっているかのようだった。傾いた日射しに照らされて、芝は、より緑であり、より明るかった。あなたは、大いなる神聖さの感じを、全く突然に感じた。あなたは、ほとんど息を抑えて、歩むのをためらいながら、そこを歩いて通り抜けた。数ヶ月後に咲くであろう、アジサイとツツジの大きな花々が、あったが、これらのもののどれ一つとして、大事ではなかった。むしろ、それらはこの地点に、祝福を与えた。あなたは、木立から出てくるとき、自分の精神が、唯一つの思考もなく、完全に空っぽであることを、悟った。ただそれだけがあり、他に何もなかった。自らが自然との深い親密な関係を失うとき、寺院、神殿、モスク、教会が、重要になる。

野心

野心は精神を暗くする。

野心は、一定の産業的な利益を生み出すが、その後に、精神が暗くなることが、ある。

1953年、ボンベイ、講話10

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私たちは、野心に基づいていない生の道を、見つけられますか - 選択のそれではなく、そこで結果が探し求められない開花である道を、です。私たちが生について知っているすべては、結果に終わる一連の格闘です。それらの結果は、より大きな結果のために、捨て去られつつあります。それが、私たちが知っているすべてです。洞窟に一人で座る人の場合には、彼自身を完璧にする過程こそに、選択がありますし、その選択は野心です。暴力的である人は、非暴力的になろうとします。そのなることこそが、野心です。私たちは、野心が正しいのか間違っているのか、それが生にとって本質的なのかどうかではなく、それが単純さの生に資するのかどうかを、見出そうとしています。私がいうのは、わずかな衣服の単純さ、質素さではありません。それは、単純な生ではありません。腰布を着けることは、単純である人を、表示しません。反対に、それは、外の物事の放棄により、精神は、より野心的になる、ということなのかもしれません。それは、自らが投影してきた、自らが創り出してきた自分の理想に、取りすがろうとするからです。それで、私たちは、自分の考え方を観察するなら、この野心の問いを、探究すべきではないですか。私たちがいうそれは、何を意味していますか。そして、野心なく生きることは、可能ですか。私たちは、野心が競争を生み育てることが、分かります - 子どもたちにも、学校にも、偉い政治家の中でも、そこまでずっと、です。記録を打ち破ろうとしています。この野心は、一定の産業的な利益を生み出しますが、その後に、明白に、精神が暗くなること、テクノロジーの条件づけが、あります。それで、精神は、自らの柔軟さ、単純さを失ってしまい、ゆえに、直接的に経験する能力が、ないのです。私たちは、探究すべきではないですか - 集団としてではなく、個人として、あなたと私が、です。私たちは、この野心が何を意味しているのか、私たちは自らの生において、この野心にいったい気づいているのかどうかを、見出すべきではないですか。

野心は、一つの形の権力である。

野心は、一つの形の権力です - 自分自身と他人に対する権力、他の誰より何かをうまくできる権力への欲望です。野心には、比較の感覚がある。それで、野心的な人は、創造的な人ではありません。けっして幸せな人ではありません。彼は、自分自身の中で、不満です。

1954年、ラージガート、講話8(和訳『智恵からの創造』)

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私たちのいわゆる前進すべては、野心に基づいています。君は、絵を描くなら、他の誰よりも、はるかに上手く描かなければなりません。この常なる格闘が、あります。この過程において起きるのは、君がとても残酷になる、ということです。君は、目的を達成したいから、非情、無思考になります - 君の集団の中、君のクラスの中、君の民族、国の中で、です。野心は本当に、一つの形の権力です - 自分自身に対するのと他人に対する権力への欲望、他の誰よりも何かを上手くできる権力です。野心には、比較の感覚があります。ゆえに、野心的な人は、けっして本当に、創造的な人ではありません。けっして幸せな人ではありません。彼は、自分自身の中で、不満です。けれども、私たちは、野心なしには自分たちは何でもないだろう、自分たちは何の前進も持たないだろう、と考えます。

野心なしに物事をする違った道が、ありますか - その中に残酷さがあり、究極的に戦争に終わる、この競争の格闘なしに、生きる、行為する、築く、創案する、違った道が、です。私は、違った道があると思いますが、その道は、既成の思考の慣習すべてに反する何かを、することを、必要とします。私たちが結果を探し求めているとき、私たちにとって、重要なことは、結果です - 私たちがすること、それ自体ではありません。私たちは、自らがしていることを、理解し、愛することができますか - それが何を生み出すだろうか、それが私たちをどこに導くだろうかとか、私たちがどんな名やどんな評判を受けるだろうかを、気にすることなしに、です。

野心的な人は、恐れている。

野心的な人は、ありのままの自分であるのを、恐れています。

Life Ahead(和訳『未来の生』)

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野心は世の中で、何をしてきましたか。だから、私たちのほとんどは、それについて考えたことがありません。君は、或る人が獲得するため、達成するため、他の誰かより先へ行くために、格闘しているのを見るとき、彼の心には何があるのかを、自分自身に訊ねたことが、ありますか。君は、自分が野心的であるとき、自分が霊的にとか、世間的な意味でひとかどの者になろうと格闘しているとき、自分の心を覗きみるなら、君はそこに、恐れの虫を、見つけるでしょう。野心的な人は、人々の中で最も怯えた人なのです。なぜなら、彼は、ありのままの自分であるのを、恐れているからです。彼は、「私は、ありのままの自分に留まるなら、何者でもないだろう。ゆえに私は、ひとかどの者でなければならない」と、言います - 「私は判事、裁判官、大臣にならなければならない」と。もし君が、この過程をきわめて間近で検討するなら、君が、言葉と観念のスクリーンの裏へ、地位と成功の壁を越えて行くなら、恐れがあることが、見つかるでしょう。なぜなら、野心的な人は、ありのままの自分であるのを、恐れているからです。彼は、自分自身でのありのままの自分は、意義深くない、貧しい、醜いと、考えます。彼はさびしい、全く空っぽだと感じます。ゆえに、彼は、「私は行って、何かを達成しなければならない」と言います。で、彼は、自らが神と呼ぶものを追い求めるのか - それはただ別の形の野心です - あるいはまた、彼は世の中で、ひとかどの者になろうとします。このようにして、彼のさびしさ、彼の内的な空っぽの感覚は - 彼はそれについて、本当に怯えています - 覆い隠されます。彼は、それから逃げ去ります。そして野心は、彼がそれをとおして逃避できる手段に、なります。

野心より自由な精神は、善の中に花開く。

自分自身に関心を持っていなくて、野心より自由である精神、自分の欲望に捕らわれたり、自分の成功の追求に駆り立てられたりしていない精神 - そういう精神は、浅くないし、それは、善の中に花開きます。

Think on These Things(和訳『子供たちとの対話』)

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浅い精神は、美しさを堪能できますか。それは、美しさについて、話をするかもしれませんが、それは、何か本当に麗しいものを見つめて、無量の喜びが湧き上がるこれを、経験できますか。精神が単に、それ自体と自身の活動に、関心を持っているだけのとき、それは、美しくありません。それが何をしようとも、それは、醜く、制限されたままに留まります。ゆえに、それは、美しさが何であるかを知る能力が、ありません。ところが、自分自身に関心を持っていなくて、野心より自由である精神、自分の欲望に捕らわれたり、自分の成功の追求に駆り立てられたりしていない精神 - そういう精神は、浅くないし、それは、善の中に花開きます。理解できますか。いわゆる醜い顔にさえ、美しさを与えるのは、この内的な善さです。内的な善さがあるとき、醜い顔は、変容します。内的な善さは本当は、深く宗教的な感情であるからです。

社会は野心に基づいている。

社会は、野心と葛藤に基づいている。ほとんど誰もがみな、この事実を、回避不可能と受け入れる。

Commentaries on Living 2(和訳『生と覚醒のコメンタリー』)

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現在、構成されているような社会は、野心と葛藤に基づいている。ほとんど誰もがみな、この事実を、回避不可能と受け入れる。個人は、その回避不可能性へ、条件づけられている - 教育をとおして、様々な形の外的と内的な強制、強要をとおして、彼は、競争したがるようにさせられる。彼は、そもそもこの社会に填まり込むのであれば、それが定める諸条件を、受け入れなければならない。さもないと、彼は、かなりひどい時間を、過ごす。私たちは、自らがこの社会に填まり込まなくてはいけないと、考えるように思われるが、なぜ自分はそうすべきなのか。

もしも私たちが、問題の意義全体を見たなら、それが起きるだろうかと、思われる。私たちは、普通の様式に沿って生きないかもしれないが、私たちは、創造的に、幸せに、全然違った見通しをもって、生きるだろう。私たちが、現在の社会様式を、回避不可能だと受け入れるなら、そういう状態は、もたらしえない。しかし、野心、競争、葛藤は、予め運命づけられて回避不可能な生の道を、構成するのか。あなたは明瞭に、それらがそうすることを、想定する。さて、私たちはそこから始めよう。なぜあなたは、この競争的な生の道を、ただ一つの存在の過程であると、取るのか。

無名性

無名であることは、良い。

君の輝きをひそかに隠しておくこと、無名であること、自分がしていることを愛して、見せびらかさないことは、良い。

Think on These Things(和訳『子供たちとの対話』)

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君の輝きをひそかに隠しておくこと、無名であること、自分がしていることを愛して、見せびらかさないことは、良い。名前なしに親切であることは、良い。それなら、君は有名になりません。それなら、君の写真が新聞に載ることになりません。政治家たちは、君の戸口へ訊ねてきません。君はただ、無名で生きている創造的な人間です。そこには、豊かさと、大いなる美しさが、あるのです。

人はこの世界に、無名に生きられる。

人はこの世界に、無名に生きられます - 完全に知られずに、有名で野心的で残酷であることなしに、です。

Think on These Things(和訳同上)

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この世界に野心なく、生きることは、可能でないですか - ただ自分のありのままであって、です。もし君が、自分が何であるかを、変化させようとせずに、それを理解しはじめるなら、そのとき、君のありのままは、変容を被ります。人はこの世界に、無名に生きられると、私は思います - 完全に知られずに、有名で野心的で残酷であることなしに、です。自己へ何の重要性も与えられないとき、人はとても幸せに生きられます。これもまた、正しい教育の一部です。

愛は無名である。

愛は無名です。私は、自分の妻と子どもを愛しているかもしれませんが、その愛の性質は、無名です。日の入りのように、愛は、あなたのでも、私のでもない。

1960年、ニューデリー、講話8

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精神が全的に無名であるのでなければ、真理は、見つけられません。あなたは愛が無名であることに注目なさったのかどうかと、思われます。私は、自分の妻、自分の子どもを愛しているかもしれませんが、その愛の性質は、無名です。日の入りのように、愛は、あなたのでも、私のでもありません。精神が、権力に没入しているとき、邪悪、腐敗があります。そして、権力への欲望は、拭い去ることが最も困難なものの一つです。何者でもないこと、内的に無名であることは、容易くありません。あなたは、「あなたは、演壇に座って話をする中で、自己を表現していませんか」と、言うかもしれません。外的には、話をしているかもしれませんが、内的には、全然、無名でいられます。そして、この完全な無名性の感覚が、あるとき、あなたは、過去や、権力への渇きとは、何の関わりをも持たない総合的な行為が、来ることを、見つけるでしょう - その渇きは、世の中に、こうも敵愾心と邪悪を、創り出します。すべての権力は、邪悪です。それが、国家、民族の権力でも、指導者の権力でも、夫に対する妻とか、妻と子どもに対する夫の権力であっても、です。あなたが気取っていないとき、あなた自身を観察するなら、あなた自身の精神の秘密の奥底で、あなたもまた、支配したり、知られたり、自分の名前を新聞に載せたりする権力がほしいことが、分かるでしょう。そして、精神が権力を探し求めているとき、それは、破壊的な精神です。それはけっして、世界に平和をもたらせません。

自己はけっして、無名ではありえない。

自己はけっして、無名ではありえない。それは、新しい衣を着、違った名前を帯びるかもしれないが、同一性が、そのまさに実体である。この同一視の過程は、それ自体の本性への気づきを、阻止する。

Commentaries on Living 1(和訳『生と覚醒のコメンタリー』)

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外的な見せかけが大きいほど、内的な貧しさが大きい。だが、この貧しさからの自由は、腰布ではない。この内的な空っぽの原因は、なりたいとの欲望である。あなたが何をしようとも、この空っぽは、けっして充たされえない。あなたは、粗野なやり方で、または、洗練をもって、それより逃避するかもしれないが、それは、あなたの影のように、あなたに近い。あなたはこの空っぽを、覗きみたくないかもしれないが、にもかかわらず、それはそこにある。自己が帯びる装飾と放棄は、けっして、この内的な貧しさを、覆えない。自己は、内と外の自らの活動により、豊かになることを、見つけようとする - 自らの便宜と満足に応じて、それを経験と呼んだり、それに異なった名を与えたりする。自己はけっして、無名ではありえない。それは、新しい衣を着、違った名前を帯びるかもしれないが、同一性が、そのまさしく実体である。この同一視する過程は、それ自体の本性への気づきを、阻止する。同一視の累積的な過程は、肯定的にか否定的に、自己を築き上げる。その活動は、閉鎖がどれほど広くても、いつも自己閉鎖的である。あろうとか、あるまいとかの自己のあらゆる努力は、それのあるがままを離れた動きである。その名、属性、体質、所有物を別として、自己は何なのか。「私」、自己は、その諸々の性質が取り去られてしまうとき、そこにあるのか。自己を活動へ駆り立てるのは、何物でもないことへのこの恐れである。だが、それは何物でもない。それは空っぽなのである。

無名性は謙虚さである。

無名性は謙虚さである。

Krishnamurti’s Notebook(和訳『クリシュナムルティの神秘体験』、『クリシュナムルティ・ノート』)

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無名性は、謙虚さである。それは、名前、衣服の変更にない。または、無名なのかもしれないもの、理想、英雄的行為、国などとの同一視に、ない。無名性は、頭脳の行為、意識的な無名性である。完全なものへの気づきとともに来る無名性が、ある。完全なものは、けっして、頭脳や観念の平野の中にない。

権威

あなたは、誰にも依存できない。

あなたは、誰にも依存できない。案内人はいない。教師はいない。権威はない。ただ、あなただけが、いる - 他の人たちと、そして世界とのあなたの関係だ。

Freedom from the Known(和訳『自己変革の方法』、『既知からの自由』)

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あなたは、誰にも依存できません。案内人はいません。教師はいません。権威はありません。ただ、あなただけが、います - 他の人たちと、そして世界とのあなたの関係です。他には何もありません。あなたがこれを悟るとき、それは、大きな絶望をもたらし、そこから冷笑癖と苦々しさが、来るのか - あるいはまた、世界に対してとあなた自身に対してと、あなたが何を考えるのか、あなたが何を感じるのか、あなたがどう行為するのかに対して、他の誰でもなく、あなたが責任があるとの事実に、向き合う中で、自己憐憫すべてが、去る。通常、私たちは、他の人たちを責めることを、生きがいにしますが、それは一つの形の自己憐憫です。

そのとき、あなたと私は、何の外側の影響もなく、何の説得もなく、何の処罰の恐れもなく、私たち自身に全的な革命を、もたらせますか。私たちは、自らの存在のまさに本質に、

心理的な変異を、もたらせますか。それで、私たちがもはや、残忍で、暴力的で、競争したがり、心配で、恐れていて、貪欲で、妬み深くないように - 私たちが日常生活を生きるところの腐った社会を築き上げてきた、その他すべての、私たちの本性の顕現でないように、です。

誰もあなたに、あなた自身について、教えられない。

あなた以外の誰もあなたに、あなた自身について、教えられない。だから、あなたは自分自身が、導師と学徒であり、あなた自身から学ばなくてはいけない。あなたが他の一人から学ぶことは、真実ではない。

1971年、マドラス、講話3

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あなた自身を知ることなしには - 表面的に、だけではなく、あなたの存在のまさに深みにおいて、です - あなたは、どの行為への基礎をも、持ちません。あなたは、その上に、安定して秩序立っている家を建てられる、いかなる基盤をも、持ちません。だから、あなたが本当に、このとてつもない旅を行おうとするなら、それは、絶対的に必要です。それが、私たちがしようとしていることです - 自分自身を理解する、この尋常でない複雑な問題の中へ、ともに旅を、です。どうぞ、それの絶対的、本質的な必要性を、見てください - すなわち、あなた自身以外の誰も、あなたにあなた自身について、教えられない。だからあなたは、自分自身が導師、学徒であり、自分自身が教師であり、あなた自身から学ばなくてはいけない、ということを、です。あなたが他の一人から学ぶことは、真実ではありません。だから、あなたは、自分が何であるかを自分自身で見出し、自分自身をどう観察するかを学ばなくてはいけません。

これに入ることは、最も難儀な任務の一つです。それは、ともに旅を行うことに、似ています。あなたは、ともに歩むとき、自分たちが友だちでなければならない、自分たちがともに歩むのを愛していなければならないことを、知ります。それは、最も困難なことの一つです。自分自身について学ぶことは、自分自身について、知識を蓄積することではありません。私自身について学ぶには、私は自分自身を観察しなくてはいけません。私が知識の蓄積をとおして、自分自身について学ぶなら、私は自分自身について学びません。

すべての権威より自由であること

すべての権威より、あなた自身と別の一人のそれより、自由であることは、昨日のあらゆる物事に対して、死ぬことである。それで、あなたの精神は、新鮮で、若く、無垢で、活力と熱情に満ちている。

Freedom From the Known(和訳同上)

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すべての権威より、あなた自身と別の一人のそれより、自由であることは、昨日のあらゆる物事に対して、死ぬことである。それで、あなたの精神は、いつも新鮮で、いつも若く、無垢で、活力と熱情に満ちている。自らが学び、観察するのは、その状態の中だけである。このために、大変多くの気づきが、必要とされる - あなた自身の内側で進みつつあることへの実際の気づきが、それを訂正することや、それにどうあるべきか、あるべきでないかを語ることなしに、である。なぜなら、それを訂正した瞬間、あなたは、別の権威、検閲者を、確立したからだ。

だから、今、私たちはともに、私たち自身を究明しようとしている。一人の人物が説明していて、その間、あなたが読んで、ページの言葉を辿りながら、彼に同意や不同意をするのではない。ともに旅を行う - 私たちの精神の最も秘密の隅々の中へ、発見の旅を、である。そういう旅を行うには、私たちは、軽く旅をしなければならない。私たちは、意見、先入観、結論の重荷を、負えない - 私たちがここ二千年以上の間、収集してきた、あの古い家具すべてを、である。あなたが自分自身について知っていることすべてを、忘れなさい。あなたがかつて、自分自身について考えたことすべてを、忘れなさい。私たちは、まるで何も知らないかのように、出発しようとしている。

指導者と従う者

指導者は、従う者を破壊する。従う者は、指導者を破壊する。

Freedom From the Known(和訳同上)

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私は、あなたの信頼を要求しない。私は自分自身を、権威に仕立てていない。私は、あなたに教えることを、何も持っていない - 新しい哲学もなく、新しい体系もなく、実在への新しい道もない。真理へ道がないのと同じく、実在へもない。どの種類のすべての権威も、特に思考と理解の平野において、最も破壊的な、邪悪なものである。指導者は、従う者を破壊する。従う者は、指導者を破壊する。あなたは、自分の教師と自分の学徒でなくてはならない。あなたは、人が価値があるとか必要だとか受け入れてきた物事すべてを、問わなくてはいけない。

無秩序は権威を創り出す

自らが無秩序と混乱の中にあるとき、社会は全く混沌とする。そのとき、まさにその無秩序こそが、権威を創り出す。

The Whole Movement of Life is Learning(和訳『アートとしての教育 : クリシュナムルティ書簡集』)

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権威を生み育てる服従の根は、何なのか。自らが無秩序と混乱の中にあるとき、社会は全く混沌とする。そのとき、まさにその無秩序こそが、権威を創り出す - 歴史的に、しばしば起きてきたように。権威を受け入れることの根は、恐れなのか - 自分自身に明瞭さもなく、不安定であることなのか。そのとき、各々の人間が、何をすべきかを語ってくれるだろう権威を、もたらしたいと望む - すべての宗教、すべての派閥と共同体に起きてきたように。導師と学徒の果てしなく続く問題であり、各々が相手を破壊しあっている。そのとき、従う者は、指導者になる。この循環は、永久に反復されつつある。

気づき

気づきへの気づき

自分が気づいていることに気づいた瞬間、私は気づいていない。

The Awakening of Intelligence

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私が気づいていることに気づいた瞬間、私は気づいていない。私が謙虚であることに気づいた瞬間、謙虚さはない。私が幸せであることに気づいた瞬間、幸せはない。だから、私が気づいていることに気づいているなら、それは、気づきではない。そこには、観察者と観察されるものとの間に、分割がある。さて、あなたは、質問をしている - すなわち、その中で、観察者と観察されるものとしての分割が、終わりになる気づきが、あるのか。明白だ。気づきは、それを意味している。気づきは、観察者がないことを、意味している。

ただ見なさい。

誰もあなたに、どう見るかを語らなくていい。あなたはただ、見る。

Freedom From the Known(『既知からの自由』、『自己変革の方法』)

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私がどの哲学や、どの神学的な観念の構造や、神学的な概念をも、定式化していないことを、まさに始まりから、理解することが、重要である。すべてのイデオロギーは、全く白痴的であるように、私には思われる。重要なのは、生の哲学ではない。私たちの日常生活において内的にと外的に、実際に何が起きつつあるかを、観察することである。あなたは、起きつつあることを、ごく間近で観察し、それを検討するなら、それが、知的な概念化に基づいていることが、分かるだろう。そして、知能は、存在の平野全体ではない。それは断片である。断片は、どれほど利巧に組み立てられても、どれほど古(いにしえ)で伝統的でも、やはり、存在の小さな一部である。ところが、私たちは、生の総体を、取り扱わなくてはいけない。世の中で起きつつあることを、見つめるとき、私たちは、外と内の過程はないことを、理解しはじめる。ただ一つ、単一の過程のみが、ある。それは、全体的、総体的な動きである - 内の動きが、外として表現されて、外がまたもや、内に則って反応する。これを見つめることができることが、必要とされるすべてだと、私には思われる。なぜなら、私たちは、どう見るかを知るなら、全部のことが、とても明らかになるからである。そして、見るには、どの哲学も、どの教師も、要らない。誰もあなたに、どう見るかを、語らなくていい。あなたはただ、見る。

そのときあなたは、この全体像を見て、それを言語的にではなく、実際に見て、あなた自身を楽に、自発的に変容させられるのか。それが、本当の主題である。心理において完全な革命をもたらすことは、可能だろうか。

気づきの観念

私たちは、気づきの観念に、知的な関心を持っている。けれども、起きつつあることに、実際に気づいていない。

The Flight of the Eagle(和訳『自由への道 空かける鳳のように』)

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私はかつてインドで、一団の人々と、車で旅をしていたのを、憶えています。私は運転手とともに、前に座っていました。後には三人がいて、気づきについて話していて、私とともに、気づきが何であるかについて、議論したいと思っていました。車は、とても速く進んでいました。道路には山羊がいて、運転手は、あまり注意を払わなくて、かわいそうな動物を、ひいてしまいました。後の紳士がたは、気づきが何であるかについて、議論していました。彼らは、何が起きたのかを、けっして知りませんでした!あなたは、笑いますが、それが、私たちがみんなやっていることです。私たちは、気づきの観念に、知的な関心を持っています - 意見の言語的、弁証法的な究明に、です。けれども、起きつつあることに、実際に気づいていません。

気づくこと

気づくことは、身の回りの物事に、敏感であり、敏いことを、意味しています - 自然に、人々に、色に、樹々に、環境に、社会構造に、全部に、です。外的に、起きつつあるすべてに気づいていることと、内側で起きつつあることに、気づいていることです。

1977年、ブロックウッド・パーク、討論会2

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「気づく」とは、身の回りの物事に、敏感であり、敏いことを、意味しています - 自然に、人々に、色に、樹々に、環境に、社会構造に、全部、です。外的に、起きつつあるすべてに気づいていることと、内側で起きつつあることに、気づいていることです。気づくことは、内側で心理的に起きつつあること、そしてまた、外側で、環境的に、経済的に、社会的になど、起きつつあることに、敏感であること、知ること、観察することです。外的に起きつつあることに、気づいていなくて、内的に気づきはじめるなら、そのとき、自らは、かなり神経症的になります。ですが、世の中で正しく起きつつあることに、可能なだけ、気づきはじめ、そのときそこから、内的に動くなら、均衡を持っています。そのとき、自分自身を欺瞞しない可能性が、あります。外的に起きつつあることに気づくことにより始めて、それから内的に動くなら - 潮の満ち引きのように、常なる動きが、あります。それで、欺瞞がないのです。自らが、外側で何が起きつつあるかを、知り、そこから内へ動くなら、そのとき、基準を持っています。

不注意に気づきなさい。

自らが注意深くて、不注意に気づいているなら、その中から、注意が花開く。

1968年、プエルトリコ、講話5

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実践は、反復、何かを何度も何度もすることを、意味しています。それは注意ですか。それは、機械的ですね。で、二つのことが、関与しています - あなたが真剣であるなら、です。不注意と注意が、あります。さて、私たちのほとんどは、不注意です。私たちは、不注意ではなく、注意深いことが重要であると、言います。そのときあなたは、それを実践しはじめたいと思います。しかし、あなたは、「私は自分の不注意に気づこう、注意しよう」と言うなら、あなたは、それがどういう意味かを、知っていますか - 不注意であるとは、です。私たちは物事を、ありのままに受け入れます - 私たちの生、私たちの生き方、醜い情動、実際にあるものすべてを、です。そして、注意深くなることは、不注意に気づいていることです - 注意深くなろうとすることではありません。なぜなら、それには、葛藤、闘争が関与しているからです - ゆえに、あなたが注意を実践するとき、それは、機械的になります。それは、注意でなくなってしまうのです。ところが、自らが注意深くて、不注意に気づいているなら、その中から、注意が花開きます。

美しさ

樹の美しさを見る。

あなたはかつて、樹を見つめたことが、ありますか - 好きや嫌いの唯の一言もなく、唯一つのイメージもなしに、です。そのとき、何が起きますか。初めてあなたは、その樹がありのままに見えます。あなたは、それの美しさ、それの色、深さと生命力が、見えます。

The Awakening of Intelligence

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あなたはかつて、樹を見つめたことが、ありますか - 好き嫌いの唯の一言もなく、唯一つのイメージもなしに、です。そのとき、何が起きますか。そのとき初めて、あなたは、その樹がありのままに見えます。あなたは、それの美しさ、それの色、深さと生命力が、見えます。樹、または、他の人物さえも、相当に観察することは、簡単ですが、そのように自分自身を観察することは - それは、観察者なしに観察することです - はるかに困難です。それで、誰が観察者であるのかを、見出さなければなりません。

自己がないとき、美しさがある。

美しさはけっして、時に束縛しない。それは全体的に、時より自由であり、ゆえに文化より自由である。自己がないとき、それがある。

Krishnamurti’s Journal(『クリシュナムルティの日記』)

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美しさはけっして、時に束縛しない。それは全体的に、時より自由であり、ゆえに文化より自由である。自己がないとき、それがある。自己は、時により、思考の動きにより、知られたものにより、言葉により、組み立てられている。自己の放棄において、あの全的な注意において、あの美しさの本質がある。自己を手放すことは、欲望・意志の計算された行為ではない。意志は、指示的であり、だから抵抗的、分割的であり、だから葛藤を生み育てる。自己の解消は、自己の知識の進化ではない。要因としての時は、まったくそれに入らない。それを終わらせる道や手段は、ない。全的な内的な無行為は、美しさの肯定的な注意である。

愛、自由、善と美しさは一つである。

愛、自由、善と美しさは、一つである。分離していない。

1984年、ボンベイ、講話4

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美しさとは何ですか。ヨーロッパの偉大な建築物、大聖堂、世界の偉大な寺院、神殿とモスクは、偉大な建築家、偉大な画家、偉大な彫刻家により、構築されました - ミケランジェロ、ああ!あなたがそれらを見るとき、それは美しい。で、美しさは、人が作ったのですか。どうぞ、あなたたちの頭脳を行使して、見出してください。虎は、人が作っていません - ありがたい!野原のただ一本だけの樹 - 孤独であり、すばらしい古木の威厳すべてを具えている。それは、人が作っていません。ですが、あなたがその樹を描いた瞬間、それは人が作っています。そして、あなたは、めでます。その樹が偉大な芸術家により描かれたのを、見るために、美術館へ行きます。で、私たちの生において、生きることの芸術の一部は、自由の深さと美しさと、それの善さを、理解することです。そして、美しさとは何ですか。絵画、詩歌、すばらしい著作家ではなくて、美しさとは何ですか。美しい男、美しい女、深みを持った顔。生におけるその美的な性質なしには - それは、敏感さより生まれるし、それは、作動中の感覚すべての中から生まれます。一つや二つや三つの感覚ではなく、諸感覚の動き全体、です。確かに、美しさは、自己がないとき、ある。私がないとき、美しさがある。自己がないとき、愛がある。それで、愛、自由、善と美しさは、一つです。分離していなくて、何か追求されるものではありません。自らは、美しさを追求し、余生をそれに使います。ですが、それらはすべて、相互に関係し合っています。善、その言葉は、きわめて古風ですが、とてつもない深さを持っています。善の深さを感ずること。それは、自由があるとき、愛と美しさがあるとき、ありうるだけです。

秩序があるところに、美しさがある。

秩序があるところ - 混乱していなくて、絶対的に秩序立っている精神が、である - 美しさがある。

This Light In Oneself(和訳『真の瞑想 自らの内なる光』)

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秩序がなければならない。それは、冥想の一部である。秩序は、美しさを意味しているが、私たちの生には、ほとんど美しさが、ない。美しさは、人が作っていない。それは、絵画にはない - それがどれほど現代的であっても、どれほど古代のであっても、だ。それは、建物に、彫像にはない。雲、木の葉や、水面にもない。秩序があるところ - 全く混乱していなくて、絶対的に秩序立っている精神が、である - 美しさがある。全的な自己否定があるとき、「私」がいかなる重要性をも持たないときだけ、秩序はありうる。「私」が終わることが、冥想の一部である。それが、主要なもの、ただ一つの冥想である。

思考と感情を越えた美しさ

美しさ - 外的な実在に対する敏感さだけではなく、思考と感情を越えている美しさに対して、敏感であること。

Krishnamurti’s Notebook(同上)

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成熟のためには、これらがあることが、絶対的に必要である -

1.謙虚さに伴う完全な単純さ - 物事や所有物においてではなく、存在の性質において、だ。

2.単に物理的なだけではない強烈さをともなった熱情。

3.美しさ - 外的な実在に対する敏感さだけではなく、思考と感情を越えている美しさに対して、敏感であること。

4.愛 - その総体。嫉妬、執着、依存を知っているものではない。肉体的なのと神聖なのとに分割されたものではない。それの無量性全体。

5.そして、追求できる精神 - 動機なく、目的なく、自らの測量不可能な深みへ透徹できるもの。障壁を持たなくて、時間・空間なく自由にさすらえるもの。

条件づけ

私たちは、受け売りの人間である。

それは、学校で始まります。あなたは、他の人たちが言ってきたことを、反復しながら、生を経て行きます。ゆえにあなたたちは、受け売りの人間です。

Flight of the Eagle(和訳『自由への道 空かける鳳のように』)

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で、それが、条件づけの要因です - 宣伝、新聞、雑誌をとおし、論壇から、です。自らは、外側の影響力にまったく頼らないことが、いかに必要であるかに、ものすごく気づきます。そのときあなたは、影響されないとはどういう意味なのかを、見出します。あなたは、新聞を読むとき、意識的にか無意識的に、影響されます。あなたは、小説や本を読むとき、影響されます - 自分が読むものを、何かの範疇に入れるように、圧迫、緊張が、あります。それが、宣伝の目的全体です。それは、学校で始まります。あなたは、他の人たちが言ってきたことを、反復しながら、生を経て行きます。ゆえにあなたたちは、受け売りの人間です。そういう受け売りの人間が、どうして、何か本来的であり、真実であるものを、見出せますか。条件づけが何であるかを理解することと、これにきわめて深く入ることが、とても重要です。それを見つめるにつれて、あなたは、精神を捉えるそれらすべての条件づけを崩してしまうエネルギーを、持ちます。

条件づけを観察する自由

あなたは、動機を持っていないとき、自由に、自分の条件づけを観察できる。

1977年、マドラス、討論会1

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「動機」という言葉は、動くことを、意味しています。私は、自分が条件づけられていることを、悟ります - ただ言語的に、「はい、私は条件づけられています」と言うだけではなく、実際に悟ります。私は、インドに生まれたから、条件づけられています - ヒンドゥーとして、バラモン、その他すべてとして、です。私は、西洋文化により、条件づけられています。私は、等々により条件づけられています。さて、それは事実です。私が条件づけられていることは、実際の日常的な事実です。さて、私は、自分が条件づけられていることを、説明しましたが、その条件づけの結果は、私が人類より分離していることです。私は、なぜその条件づけが危険であるのかの理由すべてを、知っていますが、それはやはり記述的です。で、私は、自分の条件づけを、どの種の動機 - すなわち、それより自由であること、すなわち、それを合理化すること - もなく、見つめられますか。何の動機もなく、ただそれを観察するだけです。そうするのでなければ、私はただ、一つの条件づけからもう一つの条件づけへ、動くだけでしょう。だから、重要性は、見出すことです - 動機なく観察することは、可能ですか。もしあなたが、それは不可能だと言うなら、そのときあなたは、あきらめてしまい、タオルを投げ込み、歩み去ってしまいます。もしあなたが真剣であるなら、もしあなたが、本当に熱心で、それの真理を見出したいなら、あなたは動機なく生きられるのかどうかを、見出さなくてはいけません。あなたは、動機を持っていないとき、自由に観察できるのです。

あなたが条件づけられているのを、知ること

あなたが、動揺に対して格闘したり、外や内の脅威に対して自己を防衛したりするとき、あなたは、自分が条件づけられていることを、知る。

Freedom From the Known(和訳『既知からの自由』、『自己変革の方法』)

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あなたは、楽しみの継続や痛みの回避において、葛藤があるときだけ、いかに自分が条件づけられているのかを、自分自身で見ることができるだろう。あなたのまわりのあらゆる物事が、完璧に幸せであるなら - あなたの妻はあなたを愛し、あなたは彼女を愛し、あなたは、すてきな家、すてきな子どもたちとたくさんのお金を持っているなら、そのときあなたは、自分の条件づけに、まったく気づいていない。しかし、動揺があるとき - あなたの妻が他の誰かを見つめたり、あなたがお金を失ったり、戦争や他の痛みや心配に脅かされたりするとき、あなたは、自分が条件づけられていることを、知る。あなたが、どの種の動揺に対しても格闘したり、外や内のどの脅威に対しても自分自身を防衛したりするとき、あなたは、自分が条件づけられていることを、知る。私たちのほとんどは、ほとんどの時、表面的にか、あるいは深く、動揺しているので、まさにその動揺こそが、私たちが条件づけられていることを、表示する。動物は、可愛がられるかぎり、すてきに反応するが、敵対された瞬間、彼の本性の暴力全体が、出てくる。

条件づけられているなら、生は戦場である。

条件づけからの自由なしには、人類はいつも、囚人に留まるだろうし、生は、戦場のままに留まるだろう。

The Whole Movement of Life is Learning(和訳『アートとしての教育 : クリシュナムルティ書簡集』)

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重要なことは、なぜ精神が、数百万年の後、いまだに重く条件づけられたままに留まっているかを、探究することです。これは、それが生きるところの牢獄です。精神は、社会により、その文化、教養、法律、宗教的な裁可、経済的な圧力などでもって、条件づけられています。精神は、結局のところ、過去の結果です。この過去は、伝統です。それは、この伝統の中に、その闘争、戦争、苦悶すべてをもって、生きます。自らは、それが自らの条件づけより自由でありうるのかどうかを、訊ねなければなりません。或る人たちは、それはいつも、条件づけられたままに留まるにちがいないし、けっして自由ではありえないと、言ってきました。他の人たちは、条件づけからのこの自由は、けっしてここに見つけられなくて、ただ、いつか未来の天国においてか、何か長い犠牲、修練の終わり、いわゆる宗教的実践の様式へのさらなる順応の計画の終わりにだけ、見つけられると、言ってきました。条件づけからの自由なしには、人類はいつも、囚人に留まるでしょうし、生は、戦場のままに留まるでしょう。

私たちが条件づけに応じて解釈するとき

私たちが真理を見逃すのは、私たちが、自らの条件づけと先入観に応じて、解釈しはじめ、翻訳しはじめるときである。

The First and Last Freedom(和訳『自我の終焉』、『最初で最後の自由』)

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この講話の間に、あなたの考え方と信念に反対する何かが、言われても、ただ聞いてください。抵抗しないでください。あなたが正しいのかもしれないし、私が間違っているのかもしれません。しかし、聞いて、ともに考えることにより、私たちは、何が真理であるかを、見出そうとしています。真理は、誰かによってあなたに、与えられません。あなたがそれを、発見しなくてはいけません。発見するには、そこに直接的知覚がある精神の状態が、なければなりません。抵抗、防護、保護があるとき、直接的な知覚は、ありません。理解は、有るものに気づくことをとおして、来ます。有るもの、実在のもの、現実のものを、解釈することなく、非難や正当化することなく、正しく知ることは、確かに、英知の始まりです。私たちが真理を見逃すのは、私たちが、自分の条件づけに応じて、自分の先入観に応じて、解釈しはじめ、翻訳しはじめるときだけです。結局のところ、それは調査に似ています。或るものが何であるのか、それが正しく何であるのかを、知ることは、調査を必要とします - あなたはそれを、自分の気分に応じて翻訳できません。同様に、私たちは有るものを正しく見つめ、観察し、聞き、気づくことができるなら、そのとき問題は解決されます。それが、私たちがこれらのすべての講話において、しようとしていることです。私はあなたに、有るものを、指摘しようとしています - それを私の空想に応じて翻訳しなくて、です。また、あなたはそれを、自分の背景や訓練に応じて、翻訳したり、解釈したりすべきでもありません。そのとき、あるがままのあらゆる物事に、気づくことは、可能ではありません。

意識

意識を空っぽにすること

意識よりその内容すべてを空っぽにすることは、知覚と行為において全的な動きを持つことである。

Meeting Life(和訳『生と出会う』)

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意識の内容が意識を作り上げるので、内容こそが、動きの自由、速さ、すばらしい感覚を、阻止します。意識の内容は、自己利益になります。内容は、あなたが一つの家具に、または何かの技術に、または何かの信念や経験に、重要性を与える、ということなのかもしれません。その経験、その知識、その出来事は、自己利益の中心になります。意識よりその内容すべてを空っぽにすることは、知覚と行為において、全的な動きを持つことです。

あなたの意識は、人の意識である。

あなたの意識は、実際にあなたのではない。それは、人の意識である。

Krishnamurti to Himself(和訳『最後の日記』)

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私たちの意識は実際に、あなたのや私のではない。それは、人の意識 - きわめて多くの世紀をとおして進化し、成長し、蓄積したものである。その意識の中に、信仰、神々、人が創案してきた儀式すべてが、ある。それは本当は、思考の活動である。内容を作ってきたのは、思考である - 振るまい、行為、文化、切望を、だ。人の活動全体が、思考の活動である。この意識は、自己であり、「私」、自我、人格などである。これをきわめて深く理解することが必要であると、私は思う - 単に論争的に、論理的にだけではなく、深く、血が私たちのみんなにあり、私たちの一部であり、すべての人間の本質、自然な過程であるように。これを悟るとき、私たちの責任は、とてつもなく重要になる。私たちの意識の内容が継続するかぎり、私たちは、世の中で起きつつあることすべてに、責任がある。恐れ、民族性、国籍、成功への衝動 - そうね、その事柄全体だ - それが存在するかぎり、私たちは人類の一部、人間の動きの一部である。

意識はその内容である。

意識は、その内容である。内容が、意識を作り上げる。

Krishnamurti’s Journal(和訳『クリシュナムルティの日記』)

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意識は、その内容である。内容が、意識を作り上げる。二つは分割不可能である。あなたと他の一人は、ない - 「私」と「非私」として意識を作り上げる内容だけである。内容は、文化、人種的な蓄積、取得された技術と能力により、異なる。これらは、芸術家、科学者などとして、砕けてしまっている。体質は、条件づけの応答であり、条件づけは、人の共通の要因である。この条件づけが、内容、意識である。これはまたもや、意識的なものと隠れたものとして、砕けてしまっている。隠れたものは、重要になる。なぜなら、私たちはそれを、全体として見つめたことがなかったからだ。観察者が観察されるものでないとき、経験者が、経験より異なっていると見られるとき、この断片化が起きる。隠れたものは、開いたものと同じである。観察 - 開いたものが聞こえること - は、隠れたものが見えることである。見えることは、分析することではない。分析する中には、分析者と分析されるものが、ある - 無行為、麻痺(パラリシス)へ繋がる断片化だ。

意識は、深さを持っているのか。

意識の隠れた層に与えられる重要性は、やはり表面にあり、何の深さもない。

Krishnamurti’s Journal(和訳同上)

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意識は、何か深さを持っているのか。または、ただ表面が、はためくだけなのか。思考は、自らの深さを想像できる。自らが深さを持っていると主張するとか、表面のさざめきを考えるだけとかできる。思考自体は、いったい深さを持っているのか。意識は、その内容から作り上げられている。その内容は、その辺境全体である。思考は、外のものの活動である。或る〔民族の〕言語において、思考は外側を意味している。意識の隠れた層に与えられる重要性は、やはり表面にあり、何の深さもない。思考はそれ自体に、自我、「私」として中心を与えうる。その中心は、まったく深みを持っていない。言葉は、どれほどずるく微妙に組み立てられても、深遠ではない。「私」は、言葉における、同一視における思考の製作である。「私」は、行為に、存在に深さを探し求めて、まったく意味を持っていない。関係において深さを確立しようとする、その試みすべては、自らのイメージの増殖に、終わる - それらの影を、それは深いと考える。思考の活動すべては、何も深さを持っていない。その楽しみ、その恐れ、その悲しみは、表面にある。

意識的な精神は、止まらなければならない。

無意識の投影を受け取るには、意識的な精神は、止まらなければならない。

The First and Last Freedom(和訳『自我の終焉』、『最初で最後の自由』)

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冥想の始まりは、自己認識です。それは、思考と感情のあらゆる動きに気づくこと、私の意識の層すべてを知ることを、意味しています - 表面的な層だけではなく、隠れたもの、深く秘匿された活動をも、です。深く秘匿された活動、隠れた動機、応答、思考、感情を知るには、意識的な精神に、平静さがなければなりません。すなわち、無意識の投影を受け取るには、意識的な精神は、止まっていなければなりません。表面的、意識的な精神は、自らの日常的な活動でもって、占有されています。生計を立てること、他の人たちを欺瞞すること、他の人たちを利用すること、問題より逃げ去ることでもって、です - 私たちの存在の日常的な活動すべて、です。その表面的な精神は、自らの活動の正しい意義を理解し、よって、それ自体に平静さをもたらさなければなりません。それは、単なる統制により、強要により、修練により、平静さ、静けさを、もたらせません。それは、自らの活動を理解することにより、それらを観察することにより、それらに気づくことによってのみ、平静さ、平和、静けさを、もたらせます - それ自体の非情さ、自らがいかに召使いへ、妻へ、娘へ、母親などへ話をするかを見ることによって、です。表面的、意識的な精神がかくして、自らの活動すべてに、十分に気づいているとき、その理解をとおして、それは、自発的に静かになります - 強要の薬物に酔ったり、欲望により統制されたりしていません。そのときそれは、無意識の、精神のきわめて多くの隠れた層の暗示、ヒントを、受け取る立場に、います - 人種的な本能、埋もれた記憶、秘匿された追求、いまだに癒やされていない深い傷を、です。それが、永遠のものを受け取る立場にあるのは、これらすべてが、自体を投影してきて、理解されるとき、意識全体がいかなる傷、記憶の重荷も下ろされ、足枷も外されるときだけです。

混乱

混乱を理解するために、信念は必要ではない。

混乱を理解するために、信念は必要ではない。信念は、私たち自身と私たちの問題との間のスクリーンとして、作用するだけだ。

The Book of Life(和訳『四季の瞑想』))

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あなたは、神を信じていますが、他の一人は、神を信じていません。だから、あなたたちの信念は、あなたたちを、互いより分離します。世界中の信念は、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教として組織されています。で、それは人を人より分割します。私たちは混乱しています。そして、私たちは、信念をとおして、混乱を晴らすだろうと考えます。すなわち、信念が、混乱の上に、重複させられます。私たちは、それにより混乱が、きれいに払われるだろうと、望みます。ですが、信念は単に、混乱の事実からの逃避です。それは、私たちが事実に向き合い、理解するのを助けなくて、私たちが置かれている混乱から逃げ去るのを、助けます。混乱を理解するために、信念は必要ではありません。信念はただ、私たち自身と私たちの問題との間のスクリーンとして、作用するだけです。だから、宗教は - それは組織された信念です - 有るものから、混乱の事実からの逃避の手段に、なります。神を信じている人、あの世を信じていたり、他の形の信念を持っていたりする人は、自らのありのままの事実から、逃避しています。あなたは、神を信じている人、供養をする人、一定の詠唱と言葉を反復する人、自らの日常生活で支配していて、残酷で、野心的で、ごまかしていて、不正直である人たちを、知りませんか。彼らは神を見つけるでしょうか。彼らは本当に、神を探し求めていますか。神は、言葉の反復をとおし、信念をとおして、見つけられることになりますか。ですが、そういう人々は、神を信じています。彼らは、神を崇拝します。彼らは毎日、寺院へ行きます。彼らは、自分たちのありのままの事実を回避するために、あらゆることをします。そういう人々を、あなたは立派だと、考えます。なぜなら、彼らは、あなた自身であるからです。

私たちは、誰かに、混乱の中から、自分たちを連れ出してもらいたい。

私たちは、混乱の状態にあるので、誰かに、その混乱の中から、自分たちを連れ出してもらいたいと思う。それで、私たちは、自分たちが置かれている状態から、いかに逃避するか、それを回避するかに、関心を持つ。

1955年、ロンドン、講話5

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私たちは、依存の必要性を、受け入れます。私たちは、それは回避不可能であると、言います。私たちはその主題全体を、一度も問うたことがありません - なぜ私たちの一人一人が、或る種の依存を探し求めるのかを、です。それは、私たちが本当に、深く底で、安全、恒常性を要求する、ということではないですか。私たちは、混乱の状態にあるので、誰かに、その混乱の中から、自分たちを連れ出してもらいたいと思います。それで、私たちは、いかに自分たちが置かれている状態から逃避するか、それを回避するかに、いつも関心を持っています。その状態を回避する過程において、私たちは必ず、或る種の依存を創り出すことになります - それは、私たちの権威になります。私たちが、自らの安全のため、自らの内的な幸福のために、他の一人に依存するなら、その依存の中から、無数の問題が生じてきます。そのとき私たちは、それらの問題を解決しようとします - 執着の問題を、です。ですが、私たちは、依存の問題自体を、けっして問いません。私たちはけっして、それに入りません。おそらく、私たちは本当に智恵をもち、十分な気づきをもって、この問題に入られるなら、依存はまったく主題ではないことが、見つかるかもしれません。すなわち、それはただ、さらに深い事実から逃避する道のみである、と。

考慮なき行為は、さらに大きな混乱を、創り出す。

問題を考慮することなく、自分は世の中を改革していると考えて、行為に飛び込む人 - さらに大きな混乱と悲惨を創り出しているのは、彼です。

1948年、プーナ、講話4

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私たちは、無行動でいるのを、恐れています。問題全体を考慮するために、或る期間、退くことは、とてつもない智恵を、必要とします。もしもあなたが、問題を考慮しなおすため、評価しなおすために、少しの間、退くことになったとしたなら、あなたの友人、あなたの仲間は、あなたを逃避者と考えるでしょう。あなたは無の存在になるでしょう。あなたは社会的に、どこにもいないでしょう。もし、旗が振り回されているとき、あなたが旗を振らないなら、あらゆる人が特定の帽子を被るとき、あなたがその帽子を被らないなら、あなたは取り残された感じがします。私たちのほとんどは、背景に留まりたくないので、私たちは行為に飛び込みます。で、行為と無行為の問題は、理解することが全く重要です。主題全体を考慮するには、無行動でいることが、必要ではないですか。明白に、私たちは、食っていく自分の日常的な責任を、続けていかなければなりません。必要なことすべてを、続けていかなければなりません。ですが、政治的、宗教的、社会的な組織、集団、委員会など - 私たちは、それらに所属しなくてはいけませんか。私たちは、それについてきわめて真剣であるなら、存在の問題全体を、考慮しなおし、評価しなおさなければならないのではないですか。そうするには、私たちは、考慮し、熟考し、熟慮するために、当分の間、退かなければならないのではないですか。それは、退くこと、無行為ですか。その退くのは、本当は行為でないですか。そのいわゆる無行為には、問い全体を考慮しなおす、とてつもない行為が、ありますか - 自らが生きるところの混乱について、評価しなおし、じっくりと考えることが、です。なぜ私たちは、無行動でいるのを、こうも恐れていますか。考慮しなおすことは、無行為ですか。明白に、そうではありません。確かに、行為を回避している人は、主題を考慮しなおすことなく、行動的である人です。彼は、本当の逃避者です。彼は、混乱しています。自分の混乱から、自分の至らなさから逃避するために、彼は行為へ飛び込みます。彼は、協会、党派、組織に加わります。彼は本当に、根源的な主題 - すなわち混乱 - から、逃避しています。で、私たちは言葉を、誤用しています。問題を考慮しなおすことなく、協会や党派に加わることにより、自分は世の中を改革していると思って、行為に飛び込む人 - さらに大きな混乱とさらに大きな悲惨を、創り出しているのは、彼なのです。ところが、退いて、問い全体を真剣に考慮している、いわゆる無行動の人 - 確かにそういう人のほうが、はるかに行動的なのです。特にこの頃は、全世界が断崖絶壁の際にあり、破滅的な出来事が起きつつあるとき、少なくともわずかな人が、無行動であることが、必要ではないですか - この機構、この原子的な行為の機構に、自分自身が捕らわれるのを、意図的に許さないことが、です。そういう機構は、さらなる混乱、さらなる混沌以外に、何をも生み出さないのです。

混乱に対する私たちの応答は、何なのか。

世界中の混乱に気づいて、私たちの応答は、何なのか。

The First and Last Freedom(和訳『自我の終焉』、『最初で最後の自由』)

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自らは、あまり多くの議論なく、あまり多くの言語的な表現なしに、集合的とともに個人的な混沌、混乱、悲惨があることに、気づいています。世界中でそうです - インド、シナ、アメリカ、イングランド、ドイツに、世界中に、混乱、積もる悲しみが、あります。それは、民族的だけではない。それは世界中にあります。とてつもなく激しい苦しみが、あります。それは、個人的なだけではなく、集合的でもあります。で、それは、世界の破滅です。それを単に、地理的な区域、地図の色づけられた区分にだけ、制限することは、不条理です。なぜなら、そのとき私たちは、個人的とともに、この世界的な苦しみの十分な意義を、理解しないだろうからです。この混乱に気づいていて、今日、私たちの応答は、何ですか。私たちはどう、反応しますか。政治的、社会的、宗教的な苦しみが、あります。私たちの心理的な存在全体が、混乱しています。政治的と宗教的な指導者すべてが、私たちを見捨ててきました。書物すべてが、自らの意義を失ってきました。あなたは、バガヴァッド・ギーターやバイブルや、政治学や心理学に関する最新の論文へ、行くかもしれません。あなたは、それらがあの響き、あの真理の性質を失ってしまったことを、見つけるでしょう。それらは、単なる言葉になってしまったのです。

混乱の原因

観察者が、観察されるものより区別されるなら、矛盾がある。まさにその矛盾こそが、混乱の原因である。

Beyond Violence(和訳『暴力からの解放』)

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自分は混乱しています。自分は、混乱していない精神の状態を、もたらそうとします。自分は、あれこれ、十の違った物事を、試してみます - 薬物、飲酒、セックス、礼拝、逃避、爆弾を投げること、何でも、です。初めのことは、行為を止めること、何かをするのを止めることです。また、自分は、混乱から離れた動きすべてを、止めなければなりません - それで、混乱へ、または混乱から離れて、発する行為は、何もないのです。だから、そのとき行為すべては、止まります。ただ混乱だけが、あります。それからの逃避は、ありません。また、それを抜け出す道を、見つけようとすることも、その混乱を明瞭さにより置き換えようとすることも、ありません。これから離れて、さらなる混乱を引き起こしている思考の動きは、ありません。思考は、当面の間、行為と関連していません。そのとき問いが、生じます - あなたは、観察者として、何かあなたの外側のことだとして、この混乱に気づいていますか。または、あなたは、この混乱の一部ですか。観察者は、観察されるもの - 混乱 - より、異なっていますか。観察者が、観察されるものより区別されるなら、そのとき矛盾があります。まさにその矛盾こそが、混乱の原因です。で、精神がこの混乱をいかに見つめるのかが、重要です。それは、何か別の、それ自体より分離したものとして、これを観察しますか。または、観察者は観察されるものですか。どうぞ、この大変重要なことを、理解してください。あなたは、ひとたびこれを理解したとき、それにより生にいかにものすごい違いが出るのかが、分かるでしょう - 葛藤すべてが、取り除かれるのです。観察者はもはや、「私はそれを変化させなければならない」、「私は明瞭さをもたらさなければならない」、「私はそれを乗り切らなければならない」、「私はそれを理解しようとしなければならない」、「私はそれから逃避しなければならない」と、言いません。そういう活動すべては、自分自身を混乱から分離してしまい、自分自身と混乱との間に葛藤を発生させてきた観察者のものなのです。

教育

異なった種類の教育が、なければならない。

どの種類でも社会的な変化が、あるのであれば、異なった種類の教育が、なければなりません - 子どもたちが順応するよう育てられないように、です。

Beyond Violence(和訳同上)

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私やあなたは、自分の精神が、表面的にだけではなく、奥深くでも強固に条件づけられているのを知って、どうすれば気づけますか。どうすれば、この条件づけは、崩れてしまうことになりますか。これが可能でないのなら、私たちは果てしなくずっと、順応の中に生きるでしょう。たとえ、社会の新しい様式、新しい構造や、新しい一組の信念、新しい教義、新しい宣伝が、あるとしても、それはやはり順応です。どの種類でも社会的な変化が、あるのであれば、異なった種類の教育が、なければなりません - 子どもたちが順応するよう育てられないように、です。

だから、この問いがあります - 精神はどうすれば、条件づけより自由になることになりますか。あなたがそれを試したこと、それにきわめて深く入ったことがあるのどうか、私は知りません - 意識的な水準で、だけではなく、より深い意識の層においても、です。実際に二つの間に、分割がありますか。またはそれは、一つの動きですか - その中で、私たちはただ、特定の社会や文化の要求に順応するよう教育されてきた表面的な動きを、意識しているだけです。

競争したがる精神が停止したとき

競争したがる精神が停止したとき、本当の学びが、訪れる。

Krishnamurti On Education(和訳『英知の教育』)

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競争したがる精神が停止したとき、本当の学びが、訪れます。競争したがる精神は単に、付け加える過程です - それは、まったく学びではありません。私たちは子どもに、単に機械のように、知識を自分自身に付け加えるだけではなく、学んでほしいと思います。 子どもが基礎的に根源的に学ぶよう助けるには、彼は、競争するのを、その含意すべてとともに、停止しなければなりません。さて、こうする道の一つは、私が比較しないことの真理を見ることです。さて、あなたはどのように、子どもが競争したがらないように、助けるのでしょうか。

なぜ政府は、教育を統制しようとするのか。

諸々の政府は、人間ではなく、効果的な技術者が、ほしい。なぜなら、人間たちは、政府にとって危険になるからです。宗教的な組織にとっても、同じです。こういうわけで、政府と宗教的組織は、教育を統制しようとするのです。

Krishnamurti, Education and the Significance of Life(和訳『人生の意義と教育』、『道徳教育を超えて―教育と人生の意味』、『クリシュナムルティの教育原論―心の砂漠化を防ぐために』))

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愛があるところ、同じ水準で、同じ時に、他の人との即時の親交が、ある。私たちが政府と体制、体系に、自らの子どもの教育と自らの生の方向づけを、引き取るのを許してきたのは、私たち自身がこうも乾いて、空っぽで、愛がないからである。しかし、諸々の政府は、人間ではなく、効率的な技術者を、ほしいと思う。なぜなら、人間たちは、政府にとって危険になるからである。宗教的な組織にとっても、同じである。そういうわけで、政府と宗教的な組織は、教育を統制しようとするのである。

生は、体制、体系へ、順応させられない。それは、どれほど気高く構想されていても、枠組みの中へ、力尽くで押し込められない。そして、単に、事実に関わる知識の訓練をされてきただけの精神は、多様性、微妙さ、深み、大いなる高みをもった生に、出会う能力がない。私たちが、自分の子どもたちを、思考の体系や特定の規律に沿って、訓練するとき、私たちが彼らに、部門ごとの分割の中で考えるよう、教えるとき、私たちは、彼らが、統合された男と女に成長するのを、阻害する。ゆえに、彼らは、智恵をもって考える、すなわち、全体としての生に出会う、能力がない。

子どもを理解する

子どもを理解するには、私たちは、その子が遊ぶのを見守り、様々な気分でのその子を、研究しなくてはいけない。私たちは、その子に対して、自分の先入観、望みと恐れを、投影したり、私たちの欲望の様式に合うよう、その子を枠に入れたりできない。

Education and the Significance of Life(和訳同上)

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子どもを理解するには、私たちは、その子が遊ぶのを見守り、様々な気分でのその子を、研究しなくてはいけない。私たちは、自分の先入観、望みと恐れを、その子に対して投影したり、私たちの欲望の様式に合うよう、その子を枠に入れたりできない。私たちは常に、自分の個人的な好き嫌いに応じて、その子を判定しているなら、私たちは、自分たちのその子との関係に、そして、その子の世の中との関係に、必ず障壁と妨げを、創り出すことになる。不幸にも、私たちのほとんどは、自分の虚栄と体質に満悦できる形で、その子を形作りたいと願望する。私たちは、排他的な所有権と支配に、色々な程度の安楽、快適さと満足を、見つける。

本質的なものを知覚できる能力を、目覚めさせること

智恵は、本質的なもの、有るものを、知覚できる能力である。この能力を、自分自身において、他の人たちにおいて、目覚めさせることが、教育である。

Education and the Significance of Life(和訳同上)

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教育の機能は、統合されていて、ゆえに智恵をもつ人間を、創り出すことである。私たちは、智恵をもたずに、学位を取り、機械的に効率的であるかもしれない。智恵は、単なる情報ではない。それは、書物に由来しないし、またそれは、利巧な自己防衛的な応答と攻撃的な主張からも、構成されていない。研究してこなかった人は、学識者より、智恵を持っているかもしれない。私たちは、試験と学位を智恵の基準にしてきたし、肝要な人間的な主題を回避するずるい精神を、発達させてきた。智恵は、本質的なもの、有るものを、知覚できる能力である。この能力を、自分自身に、他の人たちに目覚めさせることが、教育である。

情動

情動は自然である。

情動や感受は、自然で、健康的で、正常です。しかし、思考が引き継ぐとき、害悪すべてが始まります。

Truth and Actuality(和訳『真理の種子』)

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情動とは何ですか。情動は感受なのでしょう。あなたは、麗しい車や、美しい住宅、美しい女や男を、見ます。感覚的な知覚が、感覚を目覚めさせます。そのとき、何が起きますか。接触、そのとき欲望です。今や思考が入ってきます。あなたはそこで、終われますか - 思考に、入ってきて引き継ぐのを、させずに、です。私は、美しい住宅を見ます。正しい均整で、麗しい芝生、すてきな庭がついています。感覚すべてが、応答しています。なぜなら、大いなる美しさが、あるからです - そこは、きれいに、秩序正しく、きちんと保たれています。なぜあなたは、そこで止まれませんか - 思考に、入ってこさせないで、です。そのときあなたは、情動や感受は、自然で、健康的で、正常であるのが、分かるでしょう。しかし、思考が引き継ぐとき、害悪すべてが始まります。

それで、感覚すべてでもって何かを見つめ、そこで終わって、さらに進行しないことが、可能であるのかどうかを、自分自身で見出す - そうしてください!それには、制御がないところの、とてつもない気づきの感覚が、必要とされます - 制御がなく、ゆえに、葛藤がないのです。ただ、有るものを、全的に観察する。感覚すべてが応答し、そこで終わります。そこに、大いなる美しさが、あるのです。

情動は、頭脳に関係している。

すべての感情と情動は、頭脳に関係しているが、愛は、そうではない。

Krishnamurti’s Notebook(和訳『クリシュナムルティの神秘体験』、『クリシュナムルティ・ノート』)

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今朝、生きた喜びの感じをもって、目覚めた。目覚めたとき、それは起きつつあった。それは、過去のものではなかった。それは、実際に起きつつあった。それは来つつあった - 「外側」から、この没我が、だ。自らが誘発したのではなかった。それは、組織を押し通されつつあり、有機体を流れていった - 大きなエネルギーと嵩(かさ)をもって、だ。頭脳は、そこに加わっていなかった。ただそれを登録していた - 思い出としてではなく、起きつつある実際の事実として、だ。この没我の裏には、無量の強さと活力が、あると、思われた。それは、感傷的でも、感情、情動でもなかった。山腹を流れ落ちていくあの流れや、緑の山の斜面の、あの孤独な松の樹のように、堅固で実在だった。すべての感情と情動は、頭脳に関係しているが、愛は、そうではない。この没我もまた、そうだった。頭脳がそれを呼び起こせるのは、最大の困難を伴ってのことである。

今朝早く、大地を覆い、部屋を満たすと思われる祝福が、あった。それとともに、すべてを消耗する静かさが、来る - その中に、すべての動きを含んでいると思われる、静けさだ。

情動は向けられる。

心情と情動は、どちらへも向けられる - 殺すか、または、何か愚かな意図をめぐって統合するように、である。

The First and Last Freedom(和訳『自我の終焉』、『最初で最後の自由』)

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私たちは、所有したがり、情緒と情動に満ちています - それらは、どちらへも向けられます - 殺す、殺戮するか、または、何か愚かな無知な意図をめぐって団結するように、です。だから、どうして愛がありえますか。あなたは、これらすべてのものが止まり、終わりになってしまったときだけ、あなたが所有しないとき、あなたが単に、或る対象物への献身をもって情動的でないときだけ、愛を知りえます。そういう献身は、嘆願であり、違った形で何かを探し求めることです。祈る人は、愛を知りません。あなたは所有したがるから、あなたは献身をとおし、祈りをとおして、目的、結果を探し求めるから - それによりあなたは、感傷的、情動的になります - 当然、愛はありません。明白に、尊敬がないとき、愛はありません。あなたは、自分は尊敬を持っていると言うかもしれませんが、あなたの尊敬は、上位のものに対して、です。それは単に、何かを欲しがることから来る尊敬、恐れの尊敬だけです。あなたは、もしも本当に、尊敬を感じたなら、いわゆる最高の者に対してとともに、最低の者に対しても尊敬を持つでしょう。あなたはそれを持っていないから、愛はないのです。

情動は単なる感受である。

愛は、感傷ではない。感傷的や情動的であることは、愛ではない。なぜなら、感傷性と情動は、単なる感受であるから。

The First and Last Freedom(和訳同上)

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愛は、感傷ではありません。感傷的であること、情動的であることは、愛ではありません。なぜなら、感傷性と情動は、単なる感受であるからです。イエスやクリシュナについて、自分の導師や他の誰かについて泣く宗教的な人物は、単に感傷的、情動的なだけです。彼は、感受に耽溺しています - それは思考の過程であり、思考は愛ではありません。思考は、感受の結果です。だから、感傷的であり、情動的である人物は、とうてい愛を知りえません。またもや私たちは、情動的で感傷的でないのですか。感傷性、情動主義は単に、一つの形の自己表現です。情動に満ちていることは、明白に愛ではありません。なぜなら、感傷的な人物は、自分の感傷が応答されないとき、自分の感情が捌け口を持たないとき、残酷でありうるからです。情動的な人物は、憎しみへ、戦争へ、殺戮へ掻き立てられえます。自分の宗教のために感傷的であり、涙にかきくれる人は、確かに愛を持っていないのです。

美しさは、情動とは何の関わりもない。

あなたが、何かとてつもなく美しいものを見るとき、掻き立てられる感情は、感傷性や情動とは、何の関わりもない。

1964年、ボンベイ、講話4

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そこにある美しさは、こうも触知可能で、とてつもなく実在していました - 川の向こうの樹のように、舟人のように、あの河から跳ね出す魚のように、です。あなたは、深い熱情をもって、強烈さをもって、それを感じました。何も存在しませんでした。形態も、また、何かとても美しいものを見るとき訪れるあの奇妙な情動も、ありませんでした。あなたの精神、あなたの身体、あなたの存在が全く、止まっていました。あの美しさは継続しました。あなたは深い静寂の中で、それがときめくのを感じました。それは、情動的な性質を持たない美しさでした。感傷はありませんでした。それは、裸で、強く、活発で、熱情的でした。感傷性のどの感覚も、ありませんでした。それは、何かに面と向かって会うのに、似ていました - 実在し、裸で、それ自体で完全なものに、です。それは、どの想像、どの表現、どの翻訳も、要りませんでした。それは、充足のように、豊かさをもち、とてつもない巨大さと深さの感覚をもって、そこにありました。それが感じられました。あなたが、何かとてつもなく美しいものを見るとき、掻き立てられる感じは - 情動ではない - 感傷性と、情動と、どの記憶とも、何の関わりもありません。そのすべてが、放逐されています。あなたは、そこにいて、とてつもないもの、あなたの全存在の一部が生きて、震動し、明らかで、豊かなのを、見守っています。

恐れ

思考は恐れを創り出す。

現在の、未来の恐れ、死の恐れ、知られていないものの恐れ、充足しないことの恐れ、愛されないことの恐れが、ある - こうも多くの恐れがあり、すべて思考の機構により、創り出されている。

The Awakening of Intelligence

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あなたはまた、楽しみと、楽しみの追求があるところ、また恐れの養育もあることを、観察できます。あなたはそれに、注目したことがないですか。私が昨日したことの恐れ、私が一週間前に受けた物理的な痛みの恐れ - それについて考えることが、恐れを維持します。その痛みが過ぎたとき、それが終わることは、ありません。それは終了しましたが、私は、それについて考えることにより、それを持ち越していくのです。

だから、思考が、恐れと同じく楽しみを維持し、それに栄養を与えます。思考がこれに責任があります。現在への、未来への恐れ、死への恐れ、知られていないものへの恐れ、充足しないことへの恐れ、愛されたくて、愛されないことへの恐れが、あります - こうも多くの恐れがあり、すべて思考の機構により、創り出されています。だから、思考の合理性と、思考の非合理性が、あります。

私たちは、知られたものが、終わりになるのを、恐れている。

自らは、知られていないものを、けっして恐れていません。知られたものが終わりになるのを、恐れています。

You Are the World(和訳『あなたは世界だ』)

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死には、単に物理的な組織体が終わりになるだけより、深い意味が、あります。すなわち、心理的に終わりになること - 「私」、「あなた」が突如、終わりになるのです。「私」、「あなた」は、知識を蓄積し、苦しんで、生きてきました。記憶 - 楽しめるのと痛いのと - とともに、知られたものの苦労すべてとともに、心理的な葛藤、自らが理解しなかった物事とともに、自らがしたいと思ったが、まだしていないこととともに、です。心理的な格闘、記憶、楽しみ、痛み - そのすべてが、終わりになる。それが実際に、自らが恐れていることです - 死の向こうに何があるのか、ではありません。自らは、知られていないものを、けっして恐れていません。自らは、知られたものが終わりになるのを、恐れています。知られたものは、あなたの住宅、あなたの家族、あなたの妻、あなたの子ども、あなたの観念、あなたの家具、あなたの本、あなたが自分自身を同一視してきた物事です。それが去ってしまうとき、あなたは、完全に孤立した、さびしいと感じます。それが、あなたが恐れていることです。それは、一つの形の死ですし、それが、ただ一つの死なのです。

恐れは、何かへの関係においてのみ、ある。

恐れは、関係においてのみ、存在できる。恐れは、それ自体で、孤立において、存在できない。

Commentaries on Living 1(和訳『生と覚醒のコメンタリー』)

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恐れは、関係においてのみ、存在できる。恐れは、それ自体で、孤立において、存在できない。抽象的な恐れといったものは、ない。知られたものや知られていないものの恐れ、自分がしてきたことや、自分がするかもしれないことの恐れ、過去の、または未来の恐れが、ある。自分が何であるのかと、自分がありたいと願望するものとの間の関係が、恐れを引き起こす。自分が何であるかの事実を、褒賞と処罰ということに立って解釈するとき、恐れは生ずる。恐れは、責任と、それより自由でありたいとの欲望とともに、来る。痛みと楽しみの間の対比において、恐れはある。恐れは、対極間の葛藤に、存在する。成功の崇拝は、失敗の恐れを、もたらす。善くなる中に、邪悪の恐れが、ある。完全になる中に、さびしさの恐れが、ある。大きくなる中に、小さいことの恐れが、ある。比較は理解ではない。それは、知られたものへの関係において、知られていないものの恐れにより、促進される。恐れは、安全の探求の中での不確実性である。

なろうとする努力は、恐れが始まることである - あることやないことの恐れである。精神、経験の残滓は、いつも、名づけられていないもの、挑戦の恐れの中に、ある。精神は、名、言葉、記憶であるが、それは、知られたものの平野の中でのみ、機能できる。そして、知られていないものは、瞬間瞬間の挑戦であるが、それは、精神により、知られたものということに立って抵抗されるか、翻訳される。挑戦のこの抵抗や翻訳が、恐れである。精神は、知られていないものと、親交を持てないからだ。知られたものは、知られていないものと、親交できない。知られていないものが、あるには、知られたものは、止まなければならない。

恐れは、障壁を創り出す。

恐れは、私たちの観念を曲げ、私たちの生の道を歪めます。それは、人々の間に障壁を創り出すし、それは確かに愛を破壊します。

Life Ahead(和訳『未来の生』)

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恐れは、私たちのほとんどに、とてつもないことを、します。それは、あらゆる種類の幻影と問題を、創り出します。私たちが、きわめて深くそれに入り、本当にそれを理解するまで、恐れはいつも、私たちの行為を、歪曲するでしょう。恐れは、私たちの観念を曲げ、私たちの生の道を歪めます。それは、人々の間に障壁を創り出すし、それは確かに愛を破壊します。だから、私たちは、恐れに入れば入るほど、私たちは、理解し、それより本当に自由です。私たちのまわりにあるすべてとの接触は、大きくなるでしょう。現在、私たちの生との肝要な接触は、きわめてわずかですね。ですが、私たちは、恐れより自由になれるなら、広い接触、深い理解、本当の共感、愛ある配慮を、持つでしょうし、私たちの地平線の進展は、大きくなるでしょう。

恐れは、とてつもない宝石である。

恐れは、人間たちを支配してきた、とてつもない宝石です。あなたがそれを保って、それを見つめるなら、それが終わることが見えはじめます。

1984年、ブロックウッド・パーク、講話2

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気をつけて痛みを、見守ってください。即時に歯医者へ駆けつけないで、です。あなたがそれを見守り、それとともに留まるとき - 病的にではなく、起きつつあるすべてを、見るのです。あなたはそれに、どう反応するのか、などなど、です。あなたがそうするなら、自然に痛みは減ります。あなたがこの宝石を保つなら、同じように、です。恐れは、とてつもない宝石、四万年以上の間、人間たちを支配してきた、何かとてつもないものです。あなたがそれを保って、それを見つめられるのなら、それが終わることが、見えはじめます。次第にではなく、それが完全に終わることが、です。それは、恐れが私たちの自己中心的な、自我本位の活動の一部である、という意味です。自我、「私」が孤立しているとき、恐れがあります。「私」、自己、この自己中心的な動きは - それは分離的であるから、それは、葛藤、抗争とその他すべてのまさに本質であるから、それが、恐れの根なのです。

自由

自由は、思考なく見ることである。

自由は、どんな観念もなく、事実を見つめること、思考なく見ることである。

1962年、ニュー・デリー、講話8

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自由は、心理的な事実を、歪曲なく見つめる能力です。その自由は、始まりにあります - 終わりに、ではありません。あなたは、時が、事実ではなく、忌避の過程であることを、理解しなければなりません。時系列の時間は事実ですが、それ以外は、です。私たちが導入してきた心理的な時間 - 私たち自身に次第に変化をもたらすそれ - は、妥当性を持ちません。なぜなら、あなたが怒っているとき、あなたが野心的であるとき、あなたが妬んでいるとき、あなたはそこに楽しみを得るし、あなたはそれがほしいのです。そして、あなたが次第に変化するだろうとの観念は、その裏にまったく深さを持ちません。で、自らは、非実在の観念的、理論的な主題に精神が捕らわれるのを許さず、事実を観察することにより、心理的な抵抗を取り除きます。あなたが事実に直面しているとき、抵抗の可能性はありません。事実がそこにあるのです。

で、自由は、どんな観念もなく、事実を見つめること、思考なく事実を見ることです。あなたは、言葉をもって - すなわち思考です - 事実を見つめるのか。あるいはまた、結論をもって - すなわち、またもや思考と言葉です - または、あなたが以前に取得してきた知識をもって、です。すなわち、またもや、経験に基づいた言葉です。すなわち、記憶の結果が、あらゆる形の経験を条件づけています。それであなたは、思考なく、何かを見つめなくてはいけません。それは、何かをぽかんと空っぽに見つめる、という意味ではなく、思考の意義全体への理解をとおして、それを見つめる、という意味です。

過去が浄化されたとき、自由がある。

全存在、隠れたものとともに表面的なものより、過去が浄化されるとき、自由がある。

Commentaries on Living 1(和訳『生と覚醒のコメンタリー』)

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全存在、隠れたものとともに表面的なものより、過去が浄化されるとき、自由がある。意志は、欲望である。もし意志の行為が、自由であろう、自己を裸にしようとの努力が、あるなら、けっして自由は、全存在の全的な浄化は、ありえない。意識の多くの層すべてが、静かであり、全く止まっているとき、そのときだけ、測量不可能なもの、時のでない至福、創造の更新が、ある。

知らないことは、自由である。

知らないことは、自由である。知っていることは、牢獄である。

Tradition and Revolution(和訳『伝統と革命』)

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知能は、平野の中の自由を、知りうるだけです - 或る人が、牢獄の中の自由を知るように、です。そのときそれは、訊ねます - 自由とは何ですか。もしこれがそれでないなら、自由とは何ですか。そもそも、そういうものが、ありますか。知能は、自由がありえないということを、拒絶します。なぜなら、この牢獄から抜け出す道がないことは、想定不可能であるからです。利巧な頭脳は、マーヤー、アートマン、ブラフマンを考案します。さて、自由がないなら、精神は果てしなく、この平野の中に生きるよう、宣告されていますか。それらは、何になりますか。

私は、自由についてのこの関心が、自由でないことが、分かります - 定式ではなく、結論ではない自由、です。そのとき精神は、こう言います - 「これがそうでないなら、自由とは何なのか」と。そのときそれは、「私は知らない」と言います。それは、その知らないことの中に、知りたいとの期待があることが、分かります。私は自由が何であるかを知らないと、私が言うとき、見出したいと待っていることと期待が、あります。それは、精神が自分は知らないと言わないで、何かが起きるのを待っている、という意味です。

私はそれが分かるし、私はそれを捨て去ります。だから、私は本当に知りません。私は待って期待していません。私は、何が起きるだろう、外側の機関から何か答えが来るだろうと、望んでいません。私は、何一つ、期待していません。こういうことです。手がかりがあります。私は、これがそれでないのを、知ります - ここには、何も自由がありません。改革はありますが、自由はありません。改革はけっして、自由をもたらせません。人は、自らがけっして自由でありえない、自らはこの世界に生きるよう宣告されているとの観念全体に、反逆します。反逆するのは、知能ではありません。有機体全体、知覚全体です。ゆえにそれは、これがそれでないので、私は自由が何であるかを知らない、と言います。私は、何一つ期待しません。私は、自由が何であるかを、見つけたいと望んだり、見つけようとしたりしません。私は本当に知りません。

その知らないことが、自由です。知っていることは、牢獄です。これは論理的に正しい。私は、明日何が起きようとしているのかを、知りません。ゆえに、私は過去より自由です。この平野より自由です。

だから、知らない状態に生きる精神は、自由な精神です。

選択は自由の拒否である。

私たちは、選択できる能力を持つことにより、自分たちは自由を与えられると、考えます。選択は、まさに自由の拒否です。

Truth and Actuality(和訳『真理の種子』)

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民主主義的に、私たちは、選択の自由を持っています。私たちは、リベラル派、保守党、労働党や他の何かの間で、選択します。私たちは、選択できる能力を持つことにより、自分たちは自由を与えられると、考えます。選択は、まさに自由の拒否です。あなたは、自分が明らかでないとき、直接的な知覚がないとき、選択します。だから、あなたは、混乱の中から選択します。だから、選択に自由はありません - 心理的に、そうです。私は、この布地とあの布地の間などで、選択できますが、心理的に私たちは、選択できる能力を持っているとき、私たちは自由であると考えます。そして、私たちは、選択は混乱の中から、思考の構造の中から生まれる。ゆえに、それは自由でないことを、言っています。

思考の自由はない。

思考の自由はない。

The Book of Life(和訳『四季の瞑想』)

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私たちは、自分たちが考えるのが、記憶の応答であり、記憶は機械論的であることを、きわめて明らかに理解しなければならない。知識はいつも不完全であるし、知識から生まれた思考すべては、制限されて、部分的であり、けっして自由ではない。だから、思考の自由はない。しかし、私たちは、思考の過程でない自由を、発見しはじめられる - その中で精神が単純に、自らの葛藤、抗争すべてと、自らが晒される影響力すべてに、気づいているものを、である。

あなたの神は、神ではない。

あなたの神は、神ではない。それは、あなた自身が作ったイメージである。

The Book of Life(和訳同上)

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神を信じている人は、けっして神を見つけられない。あなたが実在へ開いているなら、実在への信念は、ありえない。あなたが、知られていないものへ開いているなら、それへの信念はありえない。結局のところ、信念は、一つの形の自己保護である。些少な精神のみが、神を信じられる。戦争中の飛行士たち、爆弾を落としていきながら神が自分たちの仲間であると言った人たちの信念を、ご覧なさい!それであなたは、殺すとき、人々を搾取しているとき、神を信じている。あなたは、神を崇拝し、情け容赦なく金銭を奪取しつづけ、軍隊を支援しつづける。けれどもあなたは、自分は憐れみ、慈悲、親切さを信じていると、言う。信念が存在しているかぎり、知られていないものは、けっしてありえない。あなたは、知られていないものについて、考えられない。思考は、それを測量できない。精神は、過去の産物である。それは、昨日の結果である。そういう精神は、知られていないものへ、開いていられるのか。それはただ、イメージを投影できるだけだが、その投影は実在していない。だから、あなたの神は、神ではない。それは、あなた自身が作ったイメージ、あなた自身の満悦の像である。精神が自体の全的な過程を理解し、終わりになるときだけ、実在がありうる。精神が完全に空っぽであるとき - そのときだけ、それは、知られていないものを、受け取る能力が、ある。精神は、関係 - 資産との、人々との自らの関係 - の内容を理解するまで、浄化されない。それが、あらゆる物事との正しい関係を確立してしまうまで、だ。精神は、関係における葛藤、抗争の過程全体を理解するまで、自由ではありえない。精神が全体的に静寂であり、完全に無活動であり、投影していないとき、それが探し求めていなくて、全く止まっているときだけ - そのときだけ、永遠であり、時のないものが、生じてくる。

信ずる精神は、先入観をもつ精神である。

神がいるとか、神がいないとか信ずる精神は、条件づけられた、先入観をもつ精神である。

You Are the World(和訳『あなたは世界だ』)

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精神は、恐れから、そして、楽しみの深まりと拡がりへの探求から、自由であることなしには - それは、痛みと心配と、楽しみの重荷と苦労すべてを、もたらします - そういう精神は、自由ではありません。そして、神がいるとか、神がいないとか信ずる精神は、同等に、条件づけられた、先入観をもった精神です。

私は、あなたがそれらをできるのを、望みます!語り手は、力説しますが、彼に説得されないでください。彼はまったく権威を持っていないからです。この見出す事柄に、何も権威はありません。導師はありません。教師はありません。あなた自身が、教師と学徒です。

恐れがないときだけ、あなたは、神があるのかどうかを、訊ねられる。

何も恐れがないとき、精神は、全く異なった次元に、ある。そのときだけ、あなたは、神があるのかないのかを、訊ねられる。

The Urgency of Change(和訳『自己の変容』)

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恐れがあります。あなたはそれを、自分自身で発見しはじめています。これが、あなたを動揺させます。信念は、恐れから来ますし、最も破壊的なものです。自らは、恐れから、そして信念から自由でなければなりません。信念は、人々を分割し、彼らを頑なにし、彼らを互いに憎みあわせ、戦争を養成します。遠回しな形で、しぶしぶあなたは、恐れが信念を拵えることを、認めています。恐れの事実に向き合うには、信念からの自由が、必要です。他のどの理想とも同じく、信念は、「有るもの」からの逃避です。何も恐れがないとき、精神は、全く異なった次元に、あります。そのときだけ、あなたは、神があるのかないのかの問いを、訊ねられるのです。恐れや信念により曇った精神は、どの種の理解、真理が何であるかの悟りの能力も、ありません。そういう精神は、幻影の中に生きていて、明白に、至高のものに出くわせません。至高のものは、あなたのや他の誰の信念、意見、結論とも、何の関わりもありません。

神は、自由があるときだけ、来る。

神や真理は、自由と自発性の状態においてのみ、生じてくる。

The First and Last Freedom(和訳『自我の終焉』、『最初で最後の自由』)

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精神が完全に静寂であるときだけ - 上辺の水準で、だけではなく、根源的に、ずっと通して、意識の表面的な水準でも、より深い水準でも、です - そのときだけ、知られていないものが、生じうるのです。知られていないものは、何か精神により経験されるものではありません。静寂のみが、経験されえます - 静寂しかないのです。精神が、静寂より他の何かを経験するなら、それは単に、自らの欲望を投影しているだけです。そういう精神は、静寂ではありません。精神が静寂でないかぎり、意識的でも無意識的でも、どの形でも、思考が動いているかぎり、静寂はありえません。静寂は、過去から、知識から、意識的と無意識的、どちらの記憶からもの自由です。精神が使用中でなく、完全に静寂であるとき、努力の産物ではない静寂があるとき、そのときだけ、時のないもの、永遠なものは、生じてくるのです。その状態は、憶えている状態ではありません - 憶えている、経験する実体は、ないのです。

ゆえに、神や真理は - または、あなたがどう呼ぼうとも - 瞬間瞬間に生じてくるものですし、それは、自由と自発性の状態においてのみ、起きます。精神が、様式に応じて修練されているとき、ではありません。神は、精神のものではありません。それは、自己投影をとおして来ません。それは、美徳があるときのみ、来ます - それは、自由です。美徳は、有るものの事実に、向き合うことです。事実に向き合うことが、至福の状態です。精神が至福に満ちて、静かであり、自らの何の動きもなく、意識的、無意識的な思考の投影もないときだけ - そのときだけ、永遠のものが、生じてきます。

神は、奇妙な神であるにちがいない。

神は、このすべての悲惨を、創造してこなかったでしょう。もしそうしてきたなら、彼は、奇妙な神、サディスティックな神であるにちがいない。

Mind Without Measure(和訳『知恵のめざめ―悲しみが花開いて終わるとき』)

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あなたが、「私は、最高原理としての神を、愛している」と、言うとき、それは愛ですか。その神、その原理、最高原理「ブラフマン」は、思考の結果です。神は、人により考案されます。きっとあなたは、これがお好きでないだろうと、私は思います。しかし、あなたは、神が存在するとの概念に、執着しています。そのときあなたは、誰がこのすべての悲惨の創造者であるかを、訊ねます。神がこのすべてを創造したのではないでしょう。もし彼がそうしてきたなら、彼は、奇妙な神であるにちがいない。彼は、サディストの神であるにちがいない。世界のすべての神は、思考により創案されています。愛が何であるかを見出すには、悲しみに終わりが、執着に終わりが、なければなりません - 私たちが内的に参与している物事すべてに、終わりが、です。自己、自我、「私」があるところ、愛はありません。

習慣

習慣は、楽しめる行為の反復である。

習慣は、精神が喚起する刺激的な記憶とイメージにより、もたらされた、楽しめる行為の反復である。

Commentaries on Living 3(和訳『生と覚醒のコメンタリー』)

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習慣は、精神が喚起する刺激的な記憶とイメージにより、もたらされた、楽しめる行為の反復である。腺の分泌とそれらの結果は、空腹の場合のように、習慣ではない。それらは、物理的組織体の通常の過程である。しかし、精神が、思考と映像により刺激されて、感受に耽溺するとき、確かに、習慣の形成が動き出す。食べ物は必要であるが、食べ物での特定の味への要求は、習慣に基づいている。微妙でも粗野でも、一定の思考と行為に、楽しみを見つけて、精神は、それらの持続を主張する。それにより、習慣を生み育てる。朝に自分の歯を磨くような反復的な行為は、注意がそれに注がれないとき、習慣になる。注意は精神を、習慣から解き放つ。

習慣からの自由

あなたが単純に、習慣の構造全体に、抵抗なく気づいているなら、習慣からの自由がある。その自由の中に、新しいことが起きる。

The Book of Life(和訳『四季の瞑想 クリシュナムルティの一日一話』)

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過去からの自由なしには、自由はまったくありません。なぜなら、精神はけっして新しく、新鮮で、無垢ではないからです。自由であるのは、新鮮で無垢の精神だけです。自由は、年齢とは何の関わりもありません。それは、経験と何の関わりもありません。自由のまさに本質は、習慣の機構全体を - 意識的なのも、無意識的なのも - 理解することにあるように、私には思われます。それは、習慣を終わらせるという問いではなく、習慣の構造を全的に見るという問いです。あなたは、習慣がいかに形成されるのかと、一つの習慣を拒否するか、それに抵抗することにより、いかに別の習慣が創り出されるのかを、観察しなくてはいけません。大事なことは、全的に習慣を意識することです。そのとき、あなたが自分自身で見るだろうように、もはや習慣の形成が、ないからです。習慣に抵抗すること、それと闘うこと、それを拒否することは、ただ習慣に継続性を与えるだけです。あなたは、特定の習慣と闘うとき、その習慣に生を与えます。そのとき、それと闘うことこそが、さらなる習慣になります。しかし、あなたが単純に、習慣の構造全体に、抵抗なく気づいているなら、習慣からの自由があることが、見つかるでしょう。その自由の中に、新しいことが起きるのです。

習慣を創り出し、縋りつくのは、鈍くて眠い精神だけです。瞬間瞬間に注意深い精神 - 自らが言っていることに注意深い。自らの手の、自らの思考の、自らの感情の動きに注意深い - それは、さらなる習慣の形成が、終わりになったことを、発見するでしょう。

習慣と闘うことは習慣になる。

あなたは、習慣と闘うとき、その習慣に命を与える。そして、闘うことが、もう一つの習慣になる。

1962年、ロンドン、講話6

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どれほど表面的でも、一つの習慣を理解し、破る中で、あなたは、習慣の甚大な問題全体に、入れます - 思考の習慣、感情の習慣、模倣の習慣。そして、何かでありたいと飢える習慣。これもまた、習慣であるからです。あなたは、習慣と闘うとき、その習慣に命を与えます。そのとき、闘うことが、もう一つの習慣になります - そこに、私たちのほとんどは、捕らわれています。私たちはただ、抵抗を知っているだけです - それは、習慣になったのです。私たちが考えることすべては、習慣的です。しかし、一つの習慣を理解することは、習慣の機構全体を理解することへ、扉を開くことです。あなたは、どこで習慣が必要であるか - 話し言葉におけるように、です - そして、どこで習慣が完全に腐敗的であるかを、見出します。

私たちのほとんどは、一連の習慣の中で、機能します。私たちの存在の騒動、心配、ものすごい苦悶の中で、私たちは、神と呼ばれるものへ向かうことにより、慰めを探し求めます。私たちは、その習慣の中で機能します。私たちは、食べ物の習慣、思考の習慣、感情の習慣を、持っています。私たちは、「習慣の中で機能しないなら、私は何をしようか。私はどう生きるべきなのか」と、言います - それは本当は、不確実であることの恐れです。私たちのほとんどは、奥底の深みへはまってしまうことなく、不確実さの状態に生きるとは、どういうことなのかを、知りません。私たちは、強烈に不確実だと感じるとき、神経症になります - それは単に、確実でありたいと思うことから生まれた反応だけです。思考はいつも、習慣の中で機能してきました。ゆえにそれは、不確実で不安全であることを、恐れています。不確実さに生きることは、健康であり神経症でない状態です。しかし、私たちは、それが何を意味しているかを、知りません。

何でもあなたがすることは、習慣の様式の中にある。

何でもあなたがすることは、習慣の様式の中にある。だから、何もしないこと、それと闘わなくていいとの感じを持つことは、智恵の最大の行為である。

Eight Conversations

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どの形の抵抗も、習慣を養います。それは、あなたが習慣をつづけてゆく、という意味ではありません。あなたは、習慣に、そして、その対極の養成に、気づきます - それもまた、習慣です。この気づきはあなたに、何であれあなたが習慣に関してすることは、もう一つの形成であることを、示します。それで今、この過程全体を観察してきた後、あなたの智恵は、こう言います - 「習慣について何もするな。それに注意を向けるな。それに関心を持つな。なぜなら、あなたがそれに関心を持てば持つほど、それは活動的になるから」と。今、智恵は、作動中であり、見守っています。この見守りは、習慣に抵抗し、それに反発する警戒より、全然違っています。あなたは、この智恵が見守っている感じを得るなら、この感じが、作動し、習慣を扱うでしょう - 決意と意志の警戒が、ではありません。それで、重要なのは、習慣ではなく、習慣を理解することです - それが智恵をもたらすのです。この智恵は、欲望の燃料 - すなわち意志 - なしに、目覚めつづけています。第一の事例において、習慣は、抵抗に直面しています。第二において、それはまったく直面していません。それが智恵です。智恵の行為は、習慣を養う習慣への抵抗を、萎れさせてしまったのです。

習慣は逃避である。

喫煙、飲酒や、どの他の習慣も、あなた自身の神経質や動揺した状態からの逃避です。

1950年、コロンボ、講話2

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質問者は、喫煙をどう止めるのかを、知りたいと思います。それは、彼にとって問題です。おそらくあなたもまた、喫煙したり、何か他の習慣を持っていたりします。習慣を形成するのと習慣を破るのとのこの過程全体をどう理解するかを、見出しましょう。私たちは、喫煙の例を取り上げられますが、あなたは、自分の習慣、自分の特定の問題を代替し、自分の問題で直接的に実験することができます - 私が喫煙の問題で実験しているとき、です。それは問題です - 私がそれをあきらめたいと思うとき、それは問題になります。私がそれに満足しているかぎり、それは問題ではありません。特定の習慣について、私が何かをしなくてはいけないとき、習慣が騒動になるとき、問題は、生じます。喫煙は、騒動を創り出してきました。それで私は、それより自由になりたいと思います。私は、喫煙を止めたい、私はそれを免れたい、それを片付けたいと思います。それで、喫煙への私の接近は、抵抗や非難のそれです。すなわち、私は喫煙したくない。それで、私の接近は、それを抑圧する、それを非難することか、または、それに代替物を見つけることです。タバコを吸う代わりに、ガムを噛む。さて、私は、非難、正当化や抑圧より自由に、問題を見つめられますか。私は、自分が喫煙するのを、何の拒否の感覚もなく、見つめられますか。私が話しているとき、今、それで実験しようとしてください。するとあなたは、拒否したり受け入れたりしないことが、いかにとてつもなく困難であるかが、分かるでしょう。なぜなら、私たちの伝統全体、私たちの背景全体が、それについて詮索したがるより、むしろ、拒否するか正当化するよう、私たちを急き立てつつあるからです。受動的に見守っている代わりに、精神はいつも、問題に対して作動します。それで、問題は、喫煙ではなく、問題を創り出す、喫煙への私たちの接近です。なぜなら、あなたは、喫煙をかなり愚かだ、お金のむだだなどと見るなら - あなたは、本当にそれが見えるなら、それを止めてしまうでしょう。何も問題はないでしょう。喫煙、飲酒や、どの他の習慣も、他の何かからの逃避です。それにより、あなたは、社交上、気楽に感じます。それは、あなた自身の神経質からや、動揺した状態からの逃避です。その習慣は、あなたの条件づけの手段に、なります。それで、喫煙は問題ではありません。あなたが、以前の試行錯誤の自分の記憶、自分の想起をもって、喫煙に接近するとき、あなたは、すでに作られた結論をもって、それに接近します。ゆえに問題は、事実にではなく、事実へのあなたの接近に、あります。あなたは、規律、制御、否認により試してきましたが、あなたは成功してきませんでした。それであなたは、「私は喫煙しつづけよう。私は止められない」と言います - それは、結局のところ、あなた自身を正当化しようとする試みです。それは、あなたの接近は、あまり智恵がない、という意味です。それで、喫煙や他のどの習慣も、問題ではありません。問題は、思考です - すなわち、事実へのあなたの接近です。あなたが問題です。あなたが作り出してきた習慣、ではありません。かくしてあなたは、本当に試すなら、精神が非難と正当化の感覚より自由であることが、いかに困難であるかが、分かるでしょう。あなたの精神が自由であるとき、喫煙の問題や、他のどの問題も、存在しないのです。

幸せ

幸せは、君が探し求めていないとき、来る。

幸せは、ふしぎです。君がそれを探し求めていないとき、それは来ます。君が、幸せであろうと努力をしていないとき、予期せず、神秘的に、幸せがある - 清浄さより、存在の麗しさより生まれて、です。

Think on These Things(和訳『子供たちとの対話』)

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君がそれを求めて奮闘しているとき、幸せは来ません。それは、きわめて容易く言われるけれども、それが最大の秘密です。私はそれを、わずかな単純な言葉に、表せますが、単に私に聞き、自分が聞いてきたことを反復するだけでは、君は、幸せにならないでしょう。幸せは、ふしぎです。君がそれを探し求めていないとき、それは来ます。君が、幸せであろうと努力をしていないとき、予期せず、神秘的に、幸せがある - 清浄さより、存在の麗しさより生まれて、です。しかし、それは、大変多くの理解を、必要とします - 組織に加わるとか、ひとかどの者になろうとするのではなくて、です。真理は、何か達成されるものではありません。君の精神と心から、奮闘する感覚すべてが、浄化されて、君がもはや、ひとかどの者になろうとしていないとき、真理は生じてきます。精神がきわめて静かであり、起きつつあることすべてを、時なく聞いているとき、それはあります。君は、これらの言葉を聞くかもしれませんが、幸せがあるには、君は、すべての恐れより精神をどう解き放つのかを、見出さなくてはなりません。

あなたは、自分がほしいものを得るなら、幸せに感じる。

あなたは、自分がほしいものを得るかぎり、幸せに感じる。しかし、自分がほしいものを得られないなら、不幸せが始まる。

1952年、ラージガート、講話10

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あなたがいう幸せとは、どういう意味ですか。或る人たちは、幸せは、自分がほしいものを得るところに存すると、言います。あなたは、車がほしい。あなたはそれを得る。そしてあなたは、幸せです。私は、サリーや衣服がほしい。私はヨーロッパへ行きたい。そして、それができるなら、私は幸せです。私は、最大の政治家でありたい。それが得られるなら、私は幸せです。それを得られないなら、私は不幸せです。それで、あなたが幸せと呼ぶものは、自分がほしいものを得ること、達成や成功、尊くなること、何でもほしいものを得ることです。あなたは、何かがほしくて、それを得られるかぎり、完璧に幸せに感じます。あなたは、欲求不満ではありません。しかし、自分がほしいものを得られないなら、不幸せが始まります。

幸せとは何ですか。そして、幸せは、何かあなたが意識しているものですか。あなたが、自分が幸せであること、自分が多くを持っていることを、意識した瞬間、それは幸せですか。あなたが、自分は幸せであることを意識した瞬間、それは幸せではないのでしょう。それで、あなたは、幸せを追いかけられません。あなたが、自分は謙虚であることを意識した瞬間、あなたは謙虚ではありません。それで、幸せは、追求されるものではありません。それは来ます。ですが、あなたがそれを探し求めるなら、それは、あなたを回避するでしょう。

私たちは、楽しみが幸せであると思う。

私たちのほとんどは、楽しみが幸せであると思う。そして、最大の楽しみを、最大の幸せだと、私たちは考える。

The Urgency of Change

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あなたは、幸せを探し求められますか。あなたがそうするなら、たぶんあなたは、すべての種類の気晴らしと耽溺に、その模造物を見つけるでしょう。これは楽しみです。楽しみと幸せの間の関係は、何ですか。

 私たちが追求する楽しみは、誤って、幸せと呼ばれますが、あなたは、楽しみを追求するように、幸せを追求できますか。楽しみが幸せであるのかどうかに関して、私たちは、きわめて明らかでなければなりません。楽しみは、喜悦、満足、耽溺、娯楽、刺激です。私たちのほとんどは、楽しみが幸せであると思います。そして、最大の楽しみを、最大の幸せだと、私たちは考えます。

認知は幸せではない。

認知は幸せではない。幸せであるとはどういうことかを知ることは、幸せではない。

Commentaries on Living 1 (和訳『生と覚醒のコメンタリー』)

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あなたは、幸せであることに、気づいたことがあるのか。確かに、あなたが気づいていたものは、あなたが幸せと呼ぶ経験の感受であった。しかし、それは幸せではない。あなたが知っているものは、過去である。現在ではない。そして過去は、感受、反応、記憶である。あなたは、自分が幸せであったことを、憶えている。過去は、幸せが何であるかを、語りうるのか。それは思い起こせるが、それはそれでありえない。認知は幸せではない。幸せであるとはどういうことかを知ることは、幸せではない。認知は、記憶の応答である。精神は、記憶、経験の複合体は、いったい幸せでありうるのか。認知こそが、経験するのを阻止する。

あなたが、自分は幸せであることに、気づいているとき、幸せがあるのか。幸せがあるとき、あなたは、それに気づいているのか。意識は、葛藤とともにのみ、来る - もっと多くを憶えていることの葛藤だ。幸せは、もっと多くを憶えていることではない。葛藤があるところ、幸せはない。精神があるところ、葛藤がある。すべての水準での思考は、記憶の応答である。だから、思考は間違いなく、葛藤を生み育てる。思考は感受である。感受は幸せではない。感受はいつも、喜悦を探し求めている。目的は感受であるが、幸せは目的ではない。それを、探し出すことはできない。

すべての幸せの起源に開いている。

すべての幸せの起源に開いていることが、最高の宗教である。

Commentaries on Living 2 (和訳同上)

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創造的な幸せは、実現可能なのか。すなわち、精神は、すべての幸せの起源であるものに、触れていられるのか。この開いていることは、知識と技巧にもかかわらず、教育と、生の混雑にもかかわらず、維持できるのか。それはできるが、教育者が、この実在へ教育されているときだけ、教える者が、彼自身、創造的な幸せの起源に触れているときだけである。だから、私たちの問題は、子どもではなく、教師と親である。私たちが何にもまして、この至高の幸せの重要性、本質的な必要性を見ないときだけ、教育は、悪循環である。結局のところ、すべての幸せの起源に開いていることが、最高の宗教である。だが、この幸せを実現するには、あなたはそれに、正しい注意を向けなければならない。教師の職業は、単なるお決まりの仕事ではなく、美しさと喜びの表現である - それは、達成と成功ということに立って測量できない。

智恵

知能 vs. 智恵

知能を訓練することは、結果的に智恵にならない。自らが、知能的にも情動的にも、完璧な調和の中で行為するとき、智恵は生じてくる。

The Book of Life(和訳『四季の瞑想 クリシュナムルティの一日一話』)

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知能を訓練することは、結果的に智恵にならない。むしろ、自らが、知能的にも情動的にも、完璧な調和の中で行為するとき、智恵は生じてくる。知能と智恵との間には、巨大な区別がある。知能は単に、情動より独立して機能している思考である。どの特定の方向でも、知能が、情動と無関連に、訓練されるとき、自らは、大きな知能を持つかもしれないが、智恵を持たない。なぜなら、智恵には、推理するとともに感じる本来的な能力が、あるからである。智恵には、どちらの能力も同等に、強烈に、調和的に存在している。

もしあなたが、情動をビジネスに持ち込むなら、ビジネスはうまく運営できないとか、正直でありえないと、あなたは言う。それで、あなたは自分の精神を、諸部門に分割する - 一部門にあなたは、自分の宗教的な関心を、保っておく。別のには、自分の情動を、第三のに、自分のビジネスの利害を、だ - それは、あなたの知的な、情動的な生とは、何の関わりもない。あなたのビジネス精神は、生を単に、生きるためのお金を得る手段として、取り扱う。だから、混沌としたこの存在、あなたの生のこの分割は、継続する。もしもあなたが、本当に自分の智恵を、ビジネスに使ったなら、すなわち、もしもあなたの情動とあなたの思考が、調和的に行為していたなら、あなたのビジネスは、破綻するかもしれない。それはたぶん、そうなるだろう。あなたは本当に、この生き方に関与している不条理、残酷さ、搾取を、感じるとき、たぶん、それを破綻させるだろう。

あなたが、単に自分の知能をもっての代わりに、自分の智恵をもって、本当に生のすべてに接近するまで、世の中のどの体系、体制も、パンのための絶え間ない骨折りから、私たちを救わないだろう。

身体は、自らの智恵を持っている。

身体は、自らの智恵を持っている。身体の智恵を観察するには、大変多くの智恵を、必要とする。

The Flight of the Eagle(和訳『自由への道 空かける鳳のように』)

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怠けを余暇と混同しないようにしましょう。私たちのほとんどは、不幸にも、怠けていて、怠惰な傾向があります。だから、私たちは、活動的であるよう、自分自身に鞭を入れます。ゆえに私たちは、もっと怠けます。私は、怠けに抵抗すればするほど、怠けます。ですが、怠けを見つめてください - 朝、私が、ひどく怠けた気持ちで起きて、多くのことをしたくないとき、です。なぜ身体は、怠けてしまったのですか。たぶん自分は食べ過ぎた。性的に耽溺しすぎた。自分は前の昼と夜、あらゆることをしてきた - 身体を重く、鈍くするように、です。そして、身体は、「後生だから、しばらくの間、私を放っておいてくれ」と言います。自分は、それに鞭を入れたい、それを活動的にしたいと思いますが、自分の生の道を修正しません。それで、自分は、活動的であるために、錠剤を摂ります。ですが、自分が観察するなら、身体は、自らの智恵を持っていることが、分かるでしょう。身体の智恵を観察するには、大変多くの智恵を、必要とします。自分は、それを力尽くで強います。それを駆り立てます。自分は、肉に慣れています。酒を飲み、タバコを吸います - その他すべてをご存じです。ゆえに、身体自体は、自らの本来の有機体的な智恵を、失ってしまいます。身体に、智恵ある行為をするのを、許すには、精神は、智恵を持って、自体が身体に干渉するのを、許してはなりません。それをやってみてください。するとあなたは、怠けがものすごい変化を被ることが、分かるでしょう。

智恵の本質

知られたものからの自由が、智恵の本質である。それは、万物の中で作動中の、この智恵である。

Krishnamurti’s Journal(和訳『クリシュナムルティの日記』)

 

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智恵の技能は、知識をその正しい所に、収めることである。知識なしには、このテクノロジー的でほぼ機械的な文明に、生きることは、可能ではない。しかし、それは、人間と彼の社会を、変容させないだろう。知識は、智恵の卓越ではない。智恵は、知識を使えるし、使うのであり、かくして、人と彼の社会を変容させる。智恵は、単なる知能とその誠実さの養成だけではない。それは、人の、あなた自身の意識全体を理解する中から、出てくる - あなた自身の一部分、分離した一区分を、ではない。あなた自身の精神と心の動きへの研究と理解が、この智恵を誕生させる。あなたは、あなたの意識の内容である。あなた自身を知る中で、あなたは、宇宙、万物を知るだろう。この知ることは、言葉を越えている。言葉はそのものではないからだ。毎分、知られたものからの自由が、智恵の本質である。あなたが放っておくなら、万物の中で作動中であるのは、この智恵である。あなたは、あなた自身の無知をとおして、この秩序の神聖さを、破壊しつつある。この無知は、他の人たちがあなたや彼ら自身について行ってきた研究により、放逐されない。あなた自身が、自分の意識の内容を、研究しなくてはいけない。他の人たちが、彼ら自身について、それであなた自身について、行ってきた研究は、記述であるが、記述されたものではない。言葉は、そのものではない。関係においてのみ、あなたは自分自身を知りうる - 抽象においてではなく、確かに孤立においてではない。僧院の中でさえ、あなたは、僧院を避難所として作ったり、自由への扉を閉ざしたりしてきた社会に、関係している。振るまいの動きは、あなた自身への確かな案内である。それは、あなたの意識の鏡である。この鏡は、その内容を開示するだろう - イメージ、執着、恐れ、さびしさ、喜び、悲しみを。貧しさは、これから逃げ去るところに、ある - その昇華の中か、あるいは、その同一性の中で、だ。この意識の内容を、抵抗なく否定することが、智恵の美しさと慈悲である。

智恵は、疑いと非個人的な観察を、要求する。

智恵は、他の人たちの熱狂やエネルギーにより、印象づけられるのではなく、疑うこと、問うことを、要求する。智恵は、非個人的な観察があることを、要求する。

The Network of Thought(和訳『思考のネットワーク』、『英知へのターニングポイント』)

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智恵は、判別し、理解し、区別する能力です。それはまた、私たちが集めてきたものすべてを観察し、組み立てる能力、そして、そこから行為する能力です。その集めること、その判別、その観察は、先入観が入っているかもしれません。先入観があるとき、智恵は拒否されます。あなたが他の一人に - どれほど尊くても - 従うなら、自分の知覚は拒否され、あなた自身の観察は拒否されます。あなたは単に、何をすべきか、何を考えるべきかを語ってくれるだろう誰かに、従っているだけです。あなたがそうするなら、智恵は存在していません。なぜなら、そこには、観察がなく、ゆえに智恵がないからです。智恵は、他の人たちにより、彼らの熱狂により、彼らのエネルギーにより印象づけられるのではなく、疑うこと、問うことを、要求します。智恵は、非個人的な観察があることを、要求します。智恵はただ、合理的、言語的に説明されることを、理解する能力だけではありません。また、私たちが可能なだけ多くの情報を集めることをも、含意しています - けれども、その情報は、誰や何についても、けっして完全ではありえないと知りつつ、です。智恵があるところ、ためらい、観察があり、合理的に非個人的に考えることの明瞭さが、あります。人の全体への了解 - 人の複雑さすべて、人の物理的な応答、人の情動的な反応、人の知的な能力、人の愛情と苦労すべてへ、です。そのすべてを一目で、一行為に知覚することが、至高の智恵です。

智恵は測量可能ではない。

思考は測量可能である。智恵はそうではない。

The Awakening of Intelligence

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ディヴィッド・ボーム(DB): 思考は、書物の中の情報に似ているし、智恵はその意味を読まなくてはいけないように、私には思われます。これは、智恵について、かなり良い概念を与えると、思います。

クリシュナムルティ(K): (智恵、インテリジェンスの語源として)行間を読むことです。

DB: ええ。それが何を意味するかを、見ることです。また、辞書に示された、もう一つの適切な意味が、あります。すなわち、精神的な鋭敏さです。

K: ええ。精神的な鋭敏さです。

DB: これは、人々が知性を測量するとき、念頭に置いているものより、大いに違っています。さて、あなたが仰ってきた多くのことを、考慮して、あなたは、智恵は思考ではないと、仰るのでしょう。あなたは、思考は古い頭脳の中で起きると、仰います - それは、物理的な過程であり、電気化学的である、と。それは、科学により十分に証明されてきました - すなわち、すべての思考は本質的に、物理的、化学的な過程であることが、です。そのとき私たちはおそらく、智恵は同じ秩序になくて、それはまったく時の秩序にないことを、言えるでしょう。

K: 智恵は、ね。

DB: ええ。智恵(インテリジェンス)は、思考の「行間」を読み、その意味を見ます。私たちがこの問いについて出発する前に、もう一つの点が、あります - もしあなたが、思考は物理的であると仰るのなら、精神や智恵は - それを何と呼びたいとしても - 違っていると思われます。それは、違った秩序の、です。物理的なものと智恵との間には、本当の違いがあると、仰るのでしょうか。

K: ええ。私たちは、思考は物質であると、言っていますか。

DB: 私はむしろ、それを、物理的な過程と呼ぶでしょうね。

K: いいですよ。思考は、物理的な過程です。そして、それと智恵との間の関係は、何ですか。智恵は、思考の産物ですか。

DB: 私たちは、そうではないことを、当たり前だと取られると、私は思います。

K: なぜ私たちは、それを当たり前だと、取りますか。

DB: 単純に、思考は機械的であるからです。

K: 思考は機械的です。そのとおりです。

DB: 智恵はそうではありません。

K: で、思考は測量可能です。智恵はそうではありません。この智恵が存在することになることは、どうして起きますか。もし思考は、智恵と何の関係をも持たないのなら、思考の停止が、智恵の目覚めですか。または、智恵は、思考に依存していなくて、時のでないので、ゆえに、いつも存在する、ということですか。

さびしさ

さびしさは、何とふしぎなものなのか。

さびしさは、何とふしぎなものなのか。そして、それはいかに怯えさせるのか!私たちはけっして自分自身を、それに近づけすぎない。私たちは偶然的に近づくなら、すぐに逃げ去ってしまう。

Commentaries on Living 1(和訳『生と覚醒のコメンタリー』)

 

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さびしさは、何とふしぎなものなのか。そして、それはいかに怯えさせるのか!私たちはけっして自分自身に、それへ近づくのを、許さない。私たちは偶然的に近づくなら、すばやくそれから逃げ去ってしまう。私たちは、さびしさから逃避するため、それを覆い隠すために、何でもするであろう。私たちの意識的と無意識的な没頭は、それを回避することや、それを乗り切ることであるように、思われる。さびしさを回避することと乗り切ることは、同等に無益である。抑圧されたり、放置されたりしても、痛み、問題はやはりそこにある。あなたは、群衆の中で自分自身を忘れるが、まったくさびしいのかもしれない。あなたは、猛烈に活動的であるかもしれないが、さびしさはあなたに、静寂に忍び寄る。書物を置いてみると、それはそこにある。娯楽と飲酒は、さびしさを溺れさせられない。あなたは一時的に、それを回避するかもしれないが、笑いとアルコールの効果が去ってしまうとき、さびしさの恐れが、戻ってくる。あなたは、野心的であり、成功を収めているかもしれない。あなたは、他の人たちに対して、巨大な権力を持っているかもしれない。あなたは、知識が豊かなのかもしれない。あなたは、礼拝し、長々とした儀式に自分自身を忘れるかもしれないが、あなたが何をしようとも、さびしさの痛みは、継続する。あなたは、ただ自分の息子のため、大師のため、自分の才能の表現のために、存在するかもしれないが、暗闇のようにさびしさは、あなたを覆ってしまう。あなたは、愛したり、憎んだり、自分の気質と心理的な要求に応じて、それから逃避したりするかもしれないが、さびしさは、そこにあり、待っていて見守っている。引き下がり、ただ再び接近するだけだ。

なぜあなたは、友だちがほしいのか。

なぜあなたは、友だちがほしいのか。それは、あなたがさびしいからですか。

Meeting Life(和訳『生と出会う』)

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なぜあなたは、友だちがほしいのか。それは、あなたがさびしいからか。それは、あなたが彼らに依存するか、頼るからか。それは、仲間付き合いを持つことなのか。それは、あなたの不充分さの中からなのか - 充足するためや、その空っぽを満たすために、他の一人へ依存して、か。ゆえにあなたは、自分の不充分さと全くの空っぽを覆い隠すために、他の人を使い、他の人を利用している。それでその人物を、友だちと呼ぶのか。私たちのほとんどは、さびしい。私たちは年を取れば取るほど、もっとさびしい。私たちは、自分の空っぽを発見する - さびしいとは、まったく友だちを持たないとは、どういう意味かを、だ。なぜなら、あなたは、表面的な生を送ってきたし、他の人たちに依存し、他の人たちを利用し、自分の思考、自分の感情を他の一人に投資してきたからだ。そして、彼らが去ってしまったり、死んだりするとき、あなたは、こうもさびしく空っぽに感じる。その空っぽの中から、自己憐憫がある。そのときあなたは、またもや、そのさびしさを満たすために、誰かを探し求めるゲームを、始める。あなたは、これらを見て、そこから学ぶことができるのか。さびしいとはどういう意味かを、学びなさい。それより逃避してはいけない。それを見つめ、それとともに生き、何が含意されているかを、見なさい - 心理的にあなたは、誰にも依存しないように、だ。そのときだけ、あなたは、愛するとはどういう意味かを、知るだろう。

なぜあなたは、一人であることに、怯えていますか。

あなたは誰かに従わないなら、とてもさびしく感じます。そのとき、さびしくありなさい。なぜあなたは、一人であることに、怯えていますか。

Freedom From the Known(和訳『自己変革の方法』、『既知からの自由』)

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あなたは、誰かに従わないなら、とてもさびしく感じます。そのとき、さびしくありなさい。なぜあなたは、一人であることに、怯えていますか。なぜなら、あなたは、ありのままの自分自身に向き合っているし、あなたは、自分が空っぽで、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、心配であることを、見つけるからです - 些細で、見かけ倒しで、受け売りの実体です。事実に向き合い、それを見つめなさい。それから逃げ去ってはいけません。あなたが逃げ去った瞬間、恐れが始まります。

一人であることは良い。

一人であることは良い。世の中からはるかに離れているが、その通りを歩くことは、一人であることである。

Krishnamurti’s Journal(和訳『クリシュナムルティの日記』)

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一人であることは良い。世の中からはるかに離れているが、その通りを歩くことは、一人であることである。春の雪解け水に満ちて、流れゆく騒がしい渓流の脇の小道を、歩いて行き、一人であることは、あの孤独な樹 - その美しさの中で一人の - に、気づくことである。通りの人のさびしさは、生の痛みである。彼はけっして、一人で、はるか離れて、触れられず、脆弱なのではない。知識に満ちていることは、けっして、一人であることではないし、その知識の活動は、果てしない悲惨を、生み育てる。挫折と痛みをともなった表現への要求は、通りを歩くあの人である。彼はけっして、一人ではない。悲しみは、あのさびしさの動きである。

さびしさは、私たちの生の暗い影である。

さびしさの痛みは、私たちの心を充たす。精神はそれを、恐れでもって覆い隠す。さびしさ、あの深い孤立は、私たちの生の暗い影である。

Commentaries on Living 2(和訳『生と覚醒のコメンタリー』)

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私たちはけっして、一人ではない。私たちは、人々により、自分の思考により、取り囲まれている。人々が遠く離れているときさえ、私たちは、自分の思考のスクリーンをとおして、物事を見る。思考がない瞬間は、ない。またそれは、きわめて稀である。一人であるとは、すべての連携より、すべての継続より、すべての言葉とイメージより自由であるとは、どういうことであるかを、私たちは知らない。私たちはさびしいが、私たちは、一人であるとは、どういうことであるかを、知らない。さびしさの痛みは、私たちの心を充たす。精神はそれを、恐れでもって覆い隠す。さびしさ、あの深い孤立は、私たちの生の暗い影である。私たちは、それから逃げ去るために、できることをすべて、する。私たちは、自分が知っている逃避の通路すべてに、突っ込んでいく。しかし、それは、私たちを追及するし、私たちはけっして、それなしではない。孤立は、私たちの生の道である。私たちはめったに、他の一人と融け合わない。私たちは自分自身において、壊れて、引き裂かれ、癒やされていないからだ。私たちは自分自身において、全体的、完全ではない。内に統合があるときだけ、他の一人と融け合うことは、可能である。私たちは、孤独を恐れている。それは、私たちの不充分さ、私たち自身の存在の貧しさへ、扉を開くからだ。しかし、さびしさの深まる傷を癒やすのは、孤独である。思考により、私たちの欲望の道跡により妨げられずに、一人で歩むことは、精神の届くところを、越えて行くことである。孤立させ、分離させ、親交を断ち切ってしまうのは、精神である。精神を、全体的にはさせられない。それは、自体を完全にできない。その努力こそが、孤立の過程であり、それは、何によっても覆い隠せないさびしさの一部であるからだ。精神は、多からの産物である。組み立てられたものは、けっして一人ではありえない。一人とは、思考の結果ではない。思考が全く止まっているときだけ、一人のものの、一人のものへの飛翔が、ある。

いつ愛は生ずるのか。

君が、君自身と他の一人との間に、障壁を持たないとき、君が人々と出会って、彼らを判定することなく観察するとき、君の心に愛が、生ずるでしょう。

Think on These Things(和訳『子供たちとの対話』)

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ほとんどの人々は、不幸せです。彼らは、心に愛がないから、不幸せです。君が、自分自身と他の一人との間に、障壁を持たないとき、君が人々と出会って、彼らを判定することなく観察するとき、君がただ、河面の帆船を見て、その美しさを楽しむとき、君の心に愛が、生ずるでしょう。君の先入観により、ありのままの物事への観察を、曇らせないでください。ただ観察してください。君は、この単純な観察の中から、樹々へ、鳥たちへ、人々が歩いている、働いている、微笑んでいるのへの、この気づきの中から、内側で君に何かが起きることを、発見するでしょう。このとてつもないことが、君に起きることなく、君の心に愛が生ずることなしには、生はほとんど意味がないのです。

愛は何もできない。

愛は何もできないが、それなしには、何もできない。

Krishnamurti’s Notebook(和訳『クリシュナムルティの神秘体験』、『クリシュナムルティ・ノート』)

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愛は悲しみではないし、それはまた、嫉妬から作り上げられない。それは危険である。それは破壊するからだ。それは、人が自分自身のまわりに築いてきた物事すべてを、煉瓦以外、破壊する。それは、寺院、神殿を築けないし、また、腐っていく社会を、改革できない。それは何もできないが、あなたが何をしようとも、それなしには、何もできない。愛は、問題を持たないし、そういうわけで、それはこうも破壊的で危険なのである。人は、諸問題によって、生きる - それら未解消で継続的な物事によって、だ。それらなしには、人は、何をすべきかを、知らないだろう。人は、迷ってしまうだろうし、失う中で、何をも得ないだろう。だから、問題は、果てしなく増殖する。一つを解消する中で、また別のがある。しかし、死はもちろん、破壊である。それは愛ではない。死は、老齢、病気である。それは、愛がもたらす破壊ではない。愛がもたらすのは、死ではない。それは、気をつけて築き上げられてきた火の灰である。愛、死、創造は、分離不可能である。あなたは一つを持って、他を拒否することは、できない。あなたはそれを、市場で、または、どの教会でも、買えない。これらは、あなたが一番、それを見つけないであろう所である。

自由と愛は、伴う。

自由と愛は、伴う。愛は反応ではない。あなたが私を愛してくれるから、私はあなたを愛しているなら、それは単なる商売です。市場で買われるものです。それは愛ではありません。愛することは、見返りに何を求めることでもありません。自分が何かを与えていることを、感じることですら、ありません。自由は知りうるのは、そういう愛だけです。

Think On These Things(和訳『子供たちとの対話』)

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君は、誰かを愛するとは、どういう意味かを、知っていますか。君は、樹や鳥や、ペットの動物を愛するとは、どういう意味かを、知っていますか - それで、その世話をし、餌を与え、それを大切にするのです。それは君に見返りに、何をも与えてくれないからもしれないし、それは、君に日陰を差し出してくれたり、君に付いてきてくれたり、君に依存してくれたりしないかもしれないけれども、です。私たちのほとんどは、そのように愛しません。私たちは、それがどういう意味かを、まったく知りません。なぜなら、私たちの愛はいつも、心配、嫉妬、恐れでもって囲い込まれているからです - それは、私たちが内的に他の一人に依存する、私たちは愛されたい、という含意です。私たちはただ愛して、そこに放っておきません。私たちは見返りに、何かを求めます。まさにその求める中で、私たちは依存します。

だから、自由と愛は、伴います。愛は反応ではありません。君が私を愛してくれるから、私は君を愛しているなら、それは単なる商売です。市場で買われるものです。それは愛ではありません。愛することは、見返りに何かを求めることでもありません。自分が何かを与えていると感じることでさえ、ありません。自由を知りうるのは、そういう愛だけです。

愛は秩序をもたらす。

正しい行為につながるのは、ただ愛だけです。世界に秩序をもたらすのは、愛することと、愛に何でもすることをさせることです。

Think on These Things(和訳同上)

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この規律の問い全体を理解することは、とても重要です。私にとって、修練は、何か全く醜いものです。それは、創造的ではありません。それは破壊的です。ですが、その種の発言をもって、単にそこに止まることは、君は何でも自分の好きなことをできることを、含意するように、思われるかもしれません。反対に、愛する人は、何でも自分が好きなことを、しないのです。正しい行為につながるのは、ただ愛だけです。世界に秩序をもたらすのは、愛して、愛に何でもすることをさせることです。

愛は、死と同じぐらい実在する。

愛は、死と同じぐらい実在し、同じぐらい強い。

Krishnamurti to Himself(和訳『最後の日記』)

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たぶん愛はこの世界から、全的に消え去ってしまった。愛は、寛大さ、気づかいを、含意している - 他の一人を傷つけないこと、他の人に罪悪を感じさせないこと、寛大であり、丁寧であって、あなたの言葉と思考が慈悲の中から生まれるようなさまで振るまうこと、ということだ。もちろんあなたは、組織的宗教の制度、施設に - すなわち、大きく、強力で、伝統的で、教義的であり、信仰を主張するものに - 所属しているなら、慈悲深くありえない。愛するには、自由がなければならない。その愛は、楽しみ、欲望や、過ぎてしまった物事の思い出ではない。愛は、嫉妬、憎しみ、怒りの対極ではない。

そのすべては、かなりユートピア的、理想主義的に聞こえるかもしれない。何か人が切望できるだけのものだ、と。しかし、あなたは、それを信じているなら、殺しつづけるだろう。愛は、死と同じぐらい実在し、同じぐらい強い。それは、想像や情緒やロマン主義と、何の関わりもない。当然、それは、権力、地位、威信と、何の関わりもない。それは、海の水のように止まっていて、海のように強力である。それは、始まりや終わりなく果てしなく流れていく豊かな河の流水に、似ている。

冥想

冥想の爆発

思考が自らの無に対して自体を打ち砕いてしまうのが、冥想の爆発である。

Krishnamurti’s Notebook(和訳『クリシュナムルティの神秘体験』、クリシュナムルティ・ノート)

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習慣と冥想は、けっして同居できない。冥想はけっして、習慣になりえない。冥想は、習慣を形成する思考により定められた様式に、けっして従いえない。冥想は、思考の破壊である - 自らの錯綜、幻視(ヴィジョン)と自らの空虚な追求に捕らわれた思考ではない。思考が自らの無に対して自体を打ち砕いてしまうのが、冥想の爆発である。この冥想は、自らの動きを持っていて、無方向であり、だから、無原因である。雲が低くて、ほとんど木々の梢に触れそうなとき、その部屋の中、その奇妙な静寂の中、冥想は、頭脳がそれ自体を空っぽにして、止まったままでいるところの動きであった。それは、空っぽの中での精神の総体の動きであった。時のないことが、あった。思考は、時の縛りの中に保たれた物質である。思考はけっして自由ではない。けっして新しくない。あらゆる経験はただ、束縛を強めるだけだ。だから、悲しみがある。経験はけっして、思考を自由にできない - それを、よりずるくするが、洗練は、悲しみが終わることではない。思考は、どれほど機敏でも、どれほど経験をしていても、けっして悲しみを終わらせられない。それは、それより逃避できるが、それはけっして、それを終わらせられない。悲しみが終わることは、思考が終わることである。それ(思考)を終わりにできるものは、誰もいない - それ自身の神々、それ自身の理想、信念、教義も、だ。あらゆる思考は、どれほど賢くても、些細でも、無限の生の挑戦への応答を形作るし、時のこの応答が、悲しみを生み育てる。思考は機械的であり、だからそれは、けっして自由ではありえない。自由においてのみ、悲しみがない。思考が終わることが、悲しみが終わることである。

一人で冥想しなさい。

一人で冥想しなさい。迷いなさい。自分がどこにいたのかを、思い出そうとしないでください。あなたがそれを思い出そうとするなら、それは、何か死んだものになるでしょう。

Meditations 1969

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一人で冥想しなさい。迷いなさい。自分がどこにいたのかを、思い出そうとするな。あなたがそれを思い出そうとするなら、それは、何か死んだものになるだろう。それの記憶に取りすがるなら、あなたは二度と、一人ではないだろう。だから、その果てしない孤独の中、その愛の美しさの中、その無垢の中、新しいものの中で、冥想しなさい。そのとき、不滅の至福がある。

冥想は実践ではない。

冥想は、実践ではない。それは、習慣の養成ではない。冥想は、高まった気づきである。

1945年、オーハイ、講話9(和訳『静けさの発見』)

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冥想は、実践ではありません。それは、習慣の養成ではありません。冥想は、高まった気づきです。単なる実践は、精神、心を鈍らせます。習慣は、無思考を表示し、鈍感さを引き起こすからです。正しい冥想は、解放的な過程、創造的な自己発見です - すなわち、思考・感情を束縛より解き放つものです。自由の中にのみ、実在のものが、あります。

彷徨いを辿りなさい。

彷徨い、散漫を辿りなさい。なぜ精神が彷徨ってきたのかを、見出しなさい。それを追求し、十分にそれに入りなさい。散漫が完全に理解されるとき、その特定の散漫は、去っている。別のが来るとき、それをもまた追求しなさい。

1949年、ラージャムンドリー、講話1

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私の精神は、彷徨います。なぜですか。私は、或る画像、文句、観念、イメージについて、考えたいと思います。それについて考える中で、私は、自分の精神が鉄道へとか、何か昨日起きたことへ、逸れてしまったことが、分かります。最初の思考は、去ってしまいました。別のが、それに取って代わったのです。ゆえに私は、生ずる思考すべてを、検討します。それが、賢明なのでしょう。ですが、あなたは自分の思考を、何かに固定するために、努力をします。なぜあなたは、それを固定すべきですか。もしあなたが、来る思考に、興味を持っているなら、それはあなたに、自らの意義を伝えます。彷徨うことは、散漫ではありません。それに名を付けないでください。彷徨い、散漫を辿ってください。なぜ精神が彷徨ってきたのかを、見出してください。それを追求し、十分にそれに入ってください。散漫が完全に理解されるとき、その特定の散漫は、去っています。別のが来るとき、それをもまた追求してください。精神は、無数の要求とあこがれから、作り上げられています。精神は、それらを理解するとき、排他的でない気づきの能力が、あります。集中は、排他性です。それは、何かに対する抵抗です。そういう集中は、目隠しをするのに、似ています。それは明白に、役立ちません。それは、実在へ繋がりません。子どもが玩具に興味を持っているとき、散漫はありません。

冥想は思考からの自由である。

冥想は、思考からの自由と、真理の没我における動きである。冥想は、智恵の爆発である。

The Second Krishnamurti Reader

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冥想は、注意の中の動きである。注意は、達成ではない。それは、個人的ではないからだ。中心として観察者があるときだけ - そこから彼が集中したり、支配したりするところである - 個人的な要素が、入って来る。かくして、達成すべては、断片的であり、制限されている。注意は、越えるべき境界、辺境を、何も持たない。注意は、明瞭さであり、思考すべてがきれいに払われている。思考はけっして、明瞭さを進められない。思考は自らの根を、死んだ過去に、持っているからだ。だから、考えることは、闇の中の行為である。これへの気づきが、注意深いことである。気づきは、注意へ繋がる方法ではない。そういう注意は、思考の平野の中にある。だから、制御や修正をされうる。この不注意に気づいていることが、注意である。冥想は、知的な過程ではない - それはやはり、思考の区域の中にある。冥想は、思考からの自由であり、真理の没我における動きである。

熱情

熱情なしには、あなたは、何も肝心なことをできない。

熱情なしには、あなたは、何も肝心なことをできない。

1958年、マドラス、講話8

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幾世紀もの間、人々は、「欲望を破壊しろ、制御しろ、形作れ、屈従させろ」と、言ってきました。そして社会は - 結局のところ、それはただ、個々人の間の相互作用です - 感情すべての抑圧を維持し扶養するのを、助けてきました。あなたは、敢えて強い感情を、持とうとしません。なぜなら、あなたは、きわめて強い感情を持っているなら、何か重大なことをするかもしれない。あなたは、危険な実体、危険な市民であるかもしれないからです。で、あなたは、社会の布告に合わせて、自分の感情を抑圧し、制御し、形作るのを、始めます。あるいは、あなたは、昇華させようとします。すなわち、強い感情の乱暴な苦悶より逃避する道を、何か見つけようとします。これが、私たちがすることなのでしょう。それで、次第に私たちは、少しのセックス、家族のため、きわめて狭い身内のために生計を立てることなどの、きわめて、きわめて表面的な感情以外、感情すべてを、破壊します。だから、私たちの精神は些細ですし、それは、すべての感情を、同じ水準に還元してしまいます。けれども、熱情なしには - 私はその言葉を使います。なぜなら、あなたは好きでないかもしれませんが、それは正しい言葉であると、私は思うからです - 熱情なしには、あなたは、何も重大なことをできません。

悲しみの中から熱情が出てくる。

完全に、何の思考の動きもなく、悲しみとともに留まりなさい。すると、その悲しみの中から、熱情が出てくることが、見つかるでしょう。

The Awakening of Intelligence

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(語源のラテン語で)「熱情(パッション)」というその言葉の根本の意味は、悲しみです。私たちはみんな、何らかの種類の悲しみを、持ってきました。誰かを失うこと、自己憐憫の悲しみ、人類の悲しみ - 集合的にも、個人的にも、です。私たちは、悲しみが何であるかを、知っています。私たちは、その悲しみとともに全的に留まるとき - それを合理化しようとすることなく、言葉をとおしてか、行為をとおしてか、どの形でも、それより逃避しようとすることなく、です - あなたが、どんな思考の動きもなく、それとともに完全に留まるとき、その悲しみの中から、熱情が出てくることが、見つかるでしょう。その熱情は、愛の性質を持っています。愛は、悲しみを持ちません。

全的な放棄が、熱情をもたらす。

熱情なしには、創造はない。全的な放棄が、この終わらない熱情を、もたらす。

Krishnamurti’s Journal(和訳『クリシュナムルティの日記』)

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熱情なしには、創造はない。全的な放棄は、この終わらない熱情を、もたらす。動機をもった放棄は、一つのことである。目的なく、計算なしには、それは別のことである。目的、方向を持っているものは、短命であり、有害に、商業的、卑俗になる。他方は、どの原因、意図や利得によっても駆り立てられず、始まりもなく、終わりもない。この放棄は、精神から、「私」、自己を空っぽにすることである。この「私」は、何らかの活動に、何らかの慰める信念や夢想に、自体を見失えるが、そういう見失いは、別の形での自己が継続することであり、別の思想と行為と同一視することである。自己の放棄は、意志の行為ではない。意志は自己であるからだ。水平的や垂直的に、どの方向でも、自己のどの動きも、やはり、時と悲しみの平野の中に、ある。思考は、自体を何かへ、捧げてしまうかもしれない - 正気か、狂気か、合理的か、白痴的なものへ、だが、その構造と本性こそが断片的であり、その熱狂、興奮こそが、すぐに楽しみと恐れに変わってしまう。この区域において、自己の放棄は、幻影であり、ほとんど意味がない。このすべてへの気づきは、自己の諸活動に目覚めることである。この注意の中に、中心、自己はない。同一視のために自分自身を表現したいとの衝動は、混乱と存在の無意味さから、出てきたものである。意味を探し求めることは、断片化の始まりである。思考は、生に千の意味を与えられるし、与える。各々が、自らの意味を考案している - それらは単に、意見と確信であり、それらに終わりはない。生きることこそが、意味全体であるが、生が葛藤、闘争であるとき - 野心、競争の戦場と成功の崇拝、権力と地位への探求であるとき、生は何の意味も持たない。

熱情は、理解されなければならない。

熱情と呼ばれるものは、抑圧や昇華されるのではなく、理解されなくてはならない。それの代替物を見つけることは、何にもならない。

Commentaries on Living 2(和訳『生と覚醒のコメンタリー』)

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自分自身を罰することは、宗教的な生なのか。身体や精神の苦行は、理解の印なのか。自己拷問は、実在への道なのか。純潔は拒否なのか。あなたは、放棄をとおして自分がはるかに行けると、思うのか。あなたは本当に、葛藤をとおして平和がありうると、思うのか。手段は目的より、無限に大事でないのか。目的は、あるかもしれないが、手段はある。現実のこと、有るものは、決意、理想と利巧な合理化により抑え込まれるのではなく、理解されなければならない。悲しみは、幸せの道ではない。熱情と呼ばれるものは、抑圧や昇華されるのではなく、理解されなくてはならない。それに代替物を見つけることは、何にもならない。あなたが何をしようとも、あなたが創案するどの装置も、ただ、愛され理解されてこなかったものを、強めるだけだろう。熱情と呼ばれるものを、愛することは、それを理解することである。愛することは、直接的に親交していることである。あなたは、何かに憤慨するなら、それについて観念、結論を持っているなら、それを愛せない。あなたは、熱情に対する誓いを立ててきたなら、どうしてそれを愛し、理解できるのか。誓いは、一つの形の抵抗である。あなたが抵抗するものは、究極的にあなたを征服する。真理は、征服されるべきものではない。あなたは、それを襲えない。あなたがそれを掴もうとするなら、それはあなたの手を、すり抜けるだろう。真理は、あなたが知ることなく、静寂に、来る。あなたが知るものは、真理ではない。それは、観念、象徴だけである。影は、実在のものではない。

私たちは、熱情によりどこに連れて行かれるのかを、知らない。

熱情はむしろ、怯えさせるものである。なぜなら、私たちがそういう完全な熱情を持っているなら、私たちは、熱情によりどこに連れて行かれるのかを、知らないからである。

The Awakening of Intelligence

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ほとんどの精神、99.999パーセントの精神は、このひどい重荷、この苦悶した存在を、持っています。それで、彼らは、エネルギーを持っていません - エネルギーとは熱情です。あなたは熱情なしには、どの真理をも見つけられません。「熱情(パッション)」というその言葉は、苦しみを表すラテン語の言葉に、由来します - それはまたもや、ギリシャ語などに由来します。この苦しみから、キリスト教圏全体が、熱情ではなく、悲しみを崇拝します。彼らは、熱情(パッション)に、(キリストの受難といった)特別な意義を与えてきました。あなたがそれにどんな意義を与えるのかを、私は知りません - 裏に憤激を秘め、全的なエネルギーをもった、完全な熱情の感じ。その中に隠れた望みがない熱情です。もしも私たちが、ただ好奇心でもってだけではなく、私たちが持つ熱情すべてでもって、訊ねることになったとしたなら、答えは何になるでしょうか。しかし、たぶんあなたは、熱情を恐れています。なぜなら、ほとんどの人々にとって、熱情は情欲です - セックスとそれらに由来する情熱です。またはそれは、私たちが所属する国との同一視をとおして感じられる熱情や、手によってか精神によって作られた何かさもしい小さな神への熱情から、来るかもしれません。それで、私たちにとって、熱情はむしろ、怯えさせるものです。なぜなら、私たちがそういう熱情を持っているなら、私たちは、それによりどこに連れて行かれるだろうかを、知らないからです。

関係

私は今、実際にあなたを知らない。

自分が「私はあなたを知っている」と言うとき、それは、「あなたが昨日、そうだったようなあなたを、私は知っている。私は今、実際にあなたを知らない。」という意味です。

1967年、サーネン、講話6

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自分が「私はあなたを知っている」と言うとき、それは、「あなたが昨日、そうだったようなあなたを、私は知っている。私は今、実際にあなたを知らない。」という意味です。自分自身は、過去です - 過去に触れられ、過去が影を落とし、現在に生きています。そして明日が、待っています - それもまた、観察者の部分です。そのすべてが、昨日、今日、明日という意味で、時の平野の中にあります。それが、自分が知っているすべてですし、この精神の状態でもって、観察者として自分は、恐れを、嫉妬を、戦争を、家族を見つめます - 「家族」と呼ばれる、あの閉じこもる実体を、です。それでもって、自分は生きます。観察者はいつも、観察されるものの問題を、解決しようとしています - すなわち、挑戦であり、新しいものであるもののそれを、です。自分はいつも、新しいものを、古いものということに立って翻訳しています。自分は果てしなく、自分が終わりに来るまで、葛藤、抗争の中にいます。その中で観察者がもはや、自分自身と観察されるものとの間に空間を持たない精神、その中で過去がもはや、どの時にも介入していない精神の状態を、知的に、言語的に、論争的にとか、説明をとおして、理解できません。けれども、観察者が観察されるものであるのは、そのときだけです。恐れが全的に終わりになるのは、そのときだけです。

私は、関係においてのみ、存在する。

片隅に座って、自分自身について冥想することは、何の役にも立たない。私は自分自身では存在できない。私は、人々、物事、観念への関係においてのみ、存在する。

Freedom From the Known(『既知からの自由』、『自己変革の方法』)

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私たちはどこで、私たち自身を理解しはじめますか。ここに私たちはいますか。そして、私はどうやって、私自身を研究し、私自身を観察し、私自身の内側で実際に何が起きつつあるかを見ることになりますか。私は、関係においてのみ、私自身を観察できます。なぜなら、生すべては、関係であるからです。片隅に座って、自分自身について冥想することは、何の役にも立ちません。私は自分自身では存在できません。私は、人々、物事、観念への関係においてのみ、存在します。外的な物事と人々への、同じく内的な物事への、自分の関係を研究する中で、私は自分自身を、理解しはじめます。他のあらゆる形の理解は、単に抽象概念です。私は、抽象概念において、自分自身を研究できません。私は、抽象的な実体ではありません。ゆえに私は、現実において私自身を研究しなくてはいけません。

軋轢のない関係

そこにいかなる軋轢もない、他の一人との関係を、持つことは、可能ですか。私が、愛が何であるかを理解するときだけ、それは可能です。

The Awakening of Intelligence

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冥想が何であるへの探究の中で、私は、どのエネルギーのむだも、他の一人との自分の関係において、軋轢により引き起こされることが、分かります。そこにいかなる軋轢もない、他の一人との関係を、持つことは、可能ですか。私が、愛が何であるかを理解するときだけ、それは可能です。愛が何であるかの理解は、愛が何でないかの拒否です。私たちが先日、入ったように、愛は、怒り、嫉妬、野心、貪欲、自己中心的な活動ではありません。そうね、それらではありません。明白にそれは、愛ではありません。だから、私自身を理解する中で、愛でないものすべてを、全的に脇に置くことがある - そのとき、それがあるのです。

イメージが、関係を持つ。私たち自身が、ではない。

私たちの関係すべてにおいて、私たちの一人一人が、相手について、イメージを築きます。そして、これら二つのイメージが、関係を持つのです - 人間たち自身が、ではない。

Freedom From the Known(和訳同上)

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人間たちの間の関係は、イメージ形成、防衛的な機構に、基づいている。私たちの関係すべてにおいて、私たちの一人一人が、相手についてイメージを築く。そして、これら二つのイメージが、関係を持つ - 人間たち自身が、ではない。妻は夫について、イメージを持っている - おそらく意識的にではなく、にもかかわらず、それはそこにある。夫は妻について、イメージを持っている。自らは、自分の国についてと、自分自身について、イメージを持っている。私たちは、これらイメージにもっともっと多くを付け加えることにより、それらをいつも強めている。関係を持つのは、これらのイメージである。イメージの形成があるとき、二人の人間の間や、多くの人間たちの間の実際の関係は、完全に終わる。これらのイメージに基づいた関係は、明白にけっして、関係に平和をもたらせない。なぜなら、イメージは虚構であるし、自らは抽象概念の中に生きられないからである。けれども、それが、私たちがみんな、していることである - 私たちが自分自身と他の人たちについて創り出してきたが、まったく実在ではない観念の中、理論の中、象徴の中、イメージの中に、生きている。私たちの関係すべては、それらが資産、観念、または人々とであれ、本質的に、このイメージ形成に基づいている。ゆえに、いつも葛藤、抗争がある。そのとき、私たち自身の中で、そして、他の人たちとの私たちの関係すべてにおいて、完全に平和でいることが、どうして可能なのか。

私たちが関係と呼ぶもの

嫉妬、不信、内側で深くさびしく感じるが、それから逃避しようとすること - それが、私の生です。それが、私たちが関係と呼ぶものです。それが、私たちが愛と呼ぶものです。

1983年、ブロックウッド・パーク、質疑応答1

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私は嫉妬しています - すなわち、誰かが去ってしまい、他の誰かに話をしたり、他の誰かを見つめたり、他の誰かと何らかのことをしたりするとき、彼らは私から、私の安定、私の安全を剥奪しています - 私は迷っています。彼らは私から、私の同一性、身元を剥奪して、私をさびしさへ駆り立ててしまいました。私はそれらが嫌いです。それで私は、彼らに嫉妬しています。嫉妬は、憎しみ、怒り、暴力、叩く、という意味合いです。私は、彼らを手放せないし、彼らは私を手放せない。そして私たちは、そのように生きます。嫉妬、不信、内側で深くさびしく感じるが、それから逃避しようとすること - それが、私の生です。それが、私たちが関係と呼ぶものです。それが、私たちが愛と呼ぶものです。

で、自らは、はるかに深い質問をします - 愛は欲望ですか。愛は楽しみですか。あなたが答えなくてはいけません - 私が、ではない。それは、あなたの生です。私の生ではない。私たちの一人一人は、この事実を、見られますか - 所有、支配、権力が、私たちの一人一人に何をするのかを、です。彼や彼女は、互いに聞き合うのでしょうか - その基礎、失うのを恐れていることを、です。関係において自分の安全を失うことを、恐れている。その安全が揺るがされるとき、私は嫉妬しています。私の妻は、私に聞くのでしょうか。私は彼女に言います - 「私はあなたを愛していますが、私はあなたを所有しません」と。あなたは、そう言えるでしょうか。「私は、あなたから自由ですし、あなたは、私から自由です」と。それは、自由恋愛と、出て行ってしまう、そうね、毎年、新しい男や新しい女に変更する、という意味ではありません。問題全体を見る、という意味です - ただ嫉妬だけ、嫉妬や不信をどう取り除くのかだけではなく、関係の問題全体を見る、ということです。それはとても複雑であり、それは、微妙さ、敏感さを、要求します。

安全

伝統は私たちの安全になる。

伝統は、私たちの伝統になる。精神が安全であるとき、それは衰退中である。

The Second Krishnamurti Reader

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過去を現在へ持ち越してくること、現在の動きを、過去ということに立って翻訳することは、現在の生きた美しさを、破壊する。この土地は、そしてほぼあらゆる土地は、伝統の重荷を負い、高い所と村の小屋に立て籠もっている。どれほど古代のでも、現代のでも、伝統には、何も神聖なものはない。頭脳は、昨日の記憶を、持ち運ぶ - それが伝統である - そして、手放すことに怯えている。なぜなら、それは、何か新しいことに、向き合えないからだ。伝統は、私たちの安全になる。精神が安全であるとき、それは衰退中である。自らは、重荷を負わず、心地よく、何の努力もなく、旅を行わなければならない - どの神殿にも、どの記念碑にも、社会的、宗教的な、どの英雄のためにも、けっして立ち止まないで、ただ一人、美しさと愛をもって、である。

思考は安全を与えるのか。

思考は、根源的に、基本的に、心理的な安全を与えるのか。

1977年、サーネン、講話1

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根源的に、基本的に思考は、心理的に安全を与えますか。思考は、自分の所を持っていますが、思考が、自分は心理的な安全をもたらせると想定するとき、それは、幻影の中に生きています。究極的な安全をほしい思考は、神と呼ばれるものを、創り出してきました。人類は、その観念に縋りつきます。思考は、あらゆる種類のロマンチックな幻影を、創り出せます。精神が、教会の教義や、何か他の教義的な主張に - それが何であっても、です - 心理的に安全を探し求めるとき、それは、思考の構造に、安全を探し求めています。思考は、経験と知識の応答です - 頭脳の中に、記憶として蓄えられて、です。ゆえに、その応答はいつも、過去から動いています。さて、過去に、安全がありますか。

安全を渇望することは、破壊をもたらす。

個人や集団の安全を渇望することは、破壊をもたらす。心理的に安全であることは、幻影を発生させる。

Commentaries on Living 1(和訳『生と覚醒のコメンタリー』)

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多くの者とともに迷うことは、一つの形の心理的な安全である。集団や観念と、世俗的でも霊的でも、同一視されていることは、安心を感じることである。そういうわけで、私たちのほとんどは、民族主義に縋りつくのである - たとえそれが、ますます多くの破壊と悲惨をもたらすとしても、だ。そういうわけで、組織的な宗教が、人々を強く捕らえているのである - たとえそれが、分割し、敵対を生み育てるとしても、だ。個人や集団の安全を渇望することは、破壊をもたらす。心理的に安全であることは、幻影を発生させる。私たちの生は、幻影と悲惨であり、明瞭さと喜びの稀な瞬間をともなっている。だから、安息の地を約束するものを何でも、私たちは熱心に受け入れる。或る人たちは、政治的なユートピアの無益さを見る。それで、宗教的になるが、それは、安全と希望を、大師に、教義に、観念に見つけることである。信念が経験を形作るので、大師たちは逃避不可能な実在になる。ひとたび同一視がもたらす楽しみを、経験したとき、精神は、強固に立て籠もるし、何もそれを揺るがせない。その基準は経験であるからだ。しかし、経験は実在ではない。実在は、経験できない。それはある。経験者が、自分は実在を経験すると考えるなら、彼は幻影だけを知る。実在への知識すべては、幻影である。実在があるためには、知識や経験が、止まなければならない。経験は、実在に出会えない。経験は、知識を形作るし、知識は、経験をねじ曲げる。実在があるには、それらはどちらも、止まなければならない。

真の安全

あなたが、人々を分け隔て、戦争で戦わせつづけている物事を、破壊するとき、真の安全がある - 戦争は、民族主義と政府の結果である。これらの物事が存在するかぎり、あなたは、平和や幸せを持たないだろう。

1934年、オークランド、講話2

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あらゆる個人が、共同体の福祉に、興味を持つとき、真の協働がありえます。今、何も協働はありません。なぜなら、あなたたちは単に、多くの羊のように、境遇により、どちらかの方向に、駆り立てられつつあるからです。あなたたちの指導者は、あなたたちを抑圧します。なぜなら、あなたたちは、搾取、利用の手段にすぎないからです。あなたたちは、搾取、利用されます。なぜなら、あなたたちの思考全体、あなたたちの構造全体が、他のあらゆる人を犠牲にした自己保存であるからです。あなたたちが、個々人として、人々を分け隔て、継続的な戦争で互いに戦わせつづけている物事を、破壊するとき、真の自己保存、真の安全があると、私は言います - 戦争は、民族主義と主権を有する政府の結果です。私は保証しますが、これらの物事が存在するかぎり、あなたたちは平和を持たないでしょう。あなたたちは幸せを持たないでしょう。それらは、ますます多くの闘争、ますます多くの戦争、ますます多くの災難、痛み、苦しみを、もたらすだけです。それらは、個々人により創り出されてきました。あなたたちは、個々人として、それらを崩して、それらより自由になりはじめなくてはいけません。そのときだけ、あなたは、生のあの没我を、悟るでしょう。

平和は、自体の安全をもたらす。

精神が選択なく、鋭敏で、見守っているなら、自己の制限からの自由が、ある。ゆえに、平和がある - それは、自体の安全をもたらす。

1954年、ニューヨーク、講話3

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私たちのほとんどにとって、平和は引き下がることです。それは、闇の洞窟に入ることや、何か信念、何か教義に取りすがることを、意味しています - その中で私たちは、安全を見つけますが、それは平和ではありません。自分自身の全的な理解でもってのみ - すなわち、それは自己認識です - 平和は来ます。その自己認識は、買えません。あなたには、どの書物も、どの教会も、どの司祭者も、どの分析者も、要りません。あなたは、自分自身の過程を、あなたの上司との、あなたの家族との、あなたの社会との関係の鏡において、観察できます。精神が選択なく、鋭敏で、見守っているなら、自己の制限からの自由が、あります。ゆえに、平和があります - それが、自体の安全をもたらします。

思考

思考はあらゆる物事を歪曲する。

思考は、こうもずるがしこく、利巧であり、それで、それは、自分の便宜のために、あらゆる物事を歪曲する。

Freedom From the Known(和訳『自己変革の方法』、『既知からの自由』)

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思考は、こうもずるく、こうも利巧であり、それで、自分の便宜のために、あらゆる物事を歪曲する。思考は、楽しみへの自分の要求の中で、自体の束縛をもたらす。思考は、私たちの関係すべてに、二元性を生み育てるものである。私たちの中に、暴力がある - すなわち、私たちに楽しみを与えてくれるものが、であるが、また、平和への欲望、親切で優しくありたいとの欲望も、ある。これが、私たちの生すべてにおいて、いつの時も、進んでいることである。思考は、私たちの中にこの二元性を、この矛盾を、生み育てるだけではない。それはまた、私たちが楽しみと痛みについて持ってきた無数の記憶を、蓄積する。そして、これらの記憶から、それが生まれ変わる。だから、思考は過去である。思考はいつも古い。

概念的に考えることが、私たちを分割してきた。

すべての思想は、宗教的でも、政治的でも、白痴的である。それは、概念的に考えること、概念的な言葉であるからだ - それが不幸にも、私たちを分割してきた。

You Are the World(和訳『あなたは世界だ』)

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分離した諸世界全体が、あります - ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、共産主義者の思想的な分割です。それらが、こういう計算不可能な害、こういう憎しみと敵対を、もたらしてきました。すべての思想は、宗教的でも、政治的でも、白痴的です。それは、概念的に考えること、概念的な言葉であるからです - それが不幸にも、人を分割してきました。これらの思想は、戦争をもたらしてきました。宗教的な寛容はあるかもしれませんが、それは、一定の点までだけです。その後、破壊、不寛容、残忍、暴力 - 宗教戦争です。同様に、思想により引き起こされた民族的、部族的な分割が、あります - 黒人の民族主義と、様々な部族的な表現です。

思考が思考者を作ってきた。

思考を離れて、思考者はない。思考が、思考者を作ってきた。

Krishnamurti to Himself(和訳『最後の日記』)

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思考を離れて、思考者はない。思考が、思考者、経験者、分析者を作ってきた。思考者、見守っている者、行為する者は、過去である - 遺伝子的に、生物的に、人の遺産すべてをともなって、伝統、習慣と、すべての蓄積された知識だ。結局のところ、過去は知識である。そして、思考者は、過去より分離していない。思考は、過去を創り出してきた。思考は過去である。そのとき思考は、思考者と思考を分割する - 思考を、思考者は形作り、制御しなければならない。しかし、それは誤謬である。ただ思考だけが、ある。自己は、「私」、過去である。想像は、未来を投影するかもしれないが、それはやはり、思考の活動である。だから、思考は - それは知識から出てきたものである - 人を変化させてこなかったし、けっして人を変化させないだろう。なぜなら、知識はいつも制限されているし、いつも制限されているだろうからだ。

思考は、けっして自由ではない。

思考は、けっして自由ではない。なぜなら、それは、知識に基づいているし、知識はいつも制限されているからです。

The Network of Thought(和訳『思考のネットワーク』、『英知へのターニングポイント』)

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考えるとは、どういうことですか。それは、記憶の応答、反応です。もしもあなたが、何の記憶をも持っていなかったなら、あなたは考えることができないでしょう。記憶は、知識として、頭脳に蓄えられています - 経験の結果です。このようにして、私たちの頭脳は作動するのです。初めに経験。その経験は、人の始まりからあったのかもしれません - それを、私たちは相続してきました。その経験は、知識を与えます - それが、頭脳に蓄えられています。知識から記憶があり、記憶から思考です。思考から、あなたは行為します。その行為からあなたは、もっと多くを学びます。それであなたは、循環を反復します。経験、知識、記憶、思考、行為 - その行為から、もっと多くを学び、反復します。このようにして、私たちはプログラムされているのです。私たちはいつも、こうしています - 痛みを憶えておいて、痛みを引き起こすだろうことをしないことにより、未来に痛みを回避します。それは知識になり、それを反復します。性的な楽しみ - それを反復します。これが思考の動きです。それの美しさを見てください - いかに思考が機械的に作動するのか、です。思考はそれ自体に、「私は自由に作動できる」と言います。けれども、思考は、けっして自由ではありません。なぜなら、それは、知識に基づいているし、知識は明白に、いつも制限されているからです。知識はまたいつも、制限されているにちがいありません。なぜなら、それは時の一部であるからです。私はもっと多くを学ぶだろう。もっと多くを学ぶために、私は時を持たなければならない。私はロシア語を知らないが、私はそれを学ぶだろう。それに私は、六ヶ月か、一年か、生涯が掛かるかもしれません。知識は、時の動きです。時、知識、思考、行為 - この循環に、私たちは生きます。思考は制限されています。だから、思考が生成するどんな行為も、制限されるにちがいありません。そういう制限は、葛藤を創り出すにちがいありません。分割的であるにちがいありません。

思考は、その正しい所を、発見できるのか。

努力や意志なく、思考がその正しい所を、発見したときだけ、何が神聖であるかを、見出しうる。そして、この無量の静寂の感覚が、ある - 思考のどんな動きもない、精神の静寂である。

The Wholeness of Life(和訳『生の全体性』)

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神聖なものは、分割を持たない - 一人は、キリスト教徒、もう一人は、ヒンドゥー教徒、仏教徒、イスラム教徒とその他すべての分割、ではない。思考が組み立ててきたものは、時のであり、断片的であり、全体的(ホール)ではない。ゆえにそれは、聖(ホーリー)ではない。あなたは、十字架上の像を崇拝するけれども、それは聖ではない。それは思考により、神聖さを賦与されている。ヒンドゥー教徒や仏教徒などが組み立ててきたイメージ、像についても、同じである。そのとき何が神聖なのか。努力なく、意志なく、思考がそれ自体を、自らの正しい所を、発見したときだけ、見出しうる。そして、この無量の静寂の感覚が、ある - 思考のどんな動きもない精神の静寂だ。言葉すべてを越えていて、時のないものを、自らが発見するのは、精神が絶対的に自由で静寂であるときだけである。そのとき、その中から、真の冥想の広大さが、出てくる。

真理

真理が解放する。

解放するのは、真理である。自由になろうとする、あなたの努力ではない。

The First and Last Freedom(和訳『自我の終焉』、『最初で最後の自由』)

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再生は、現在においてのみ、可能である - 未来においてではなく、明日にではない。幸せを獲得できたり、真理や神を覚ったりできるための手段として、時に頼る人は、単に自分自身を欺瞞している。彼は、無知の中に生きていて、ゆえに葛藤の中にいる。時は、私たちの困難を抜け出す道ではないことを見る人、ゆえに偽りから自由である人 - そういう人は自然に、理解したいとの意図を、持つ。ゆえに彼の精神は、強要なく、実践なく、自発的に静かである。精神が、どんな答えや解答をも探し求めていなくて、抵抗も回避もしていなくて、止まって平静であるとき - 再生がありうるのは、そのときだけである。なぜなら、そのとき精神は、何が真実であるかを、知覚する能力が、あるからだ。そして、解放するのは、真理である - 自由になろうとする、あなたの努力ではない。

真理は、道なき土地である。

私は、真理は道なき土地であると主張します。あなたは、いかなる道によっても、それに接近できません - どの宗教によっても、どの宗派によっても、です。

「星の教団」解散演説

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私は、真理は道なき土地であると、主張します。あなたは、いかなる道によっても、それに接近できません - どの宗教によっても、どの宗派によっても、です。それが私の視点です。私は絶対的に、無条件に、それを堅持します。真理は、無制限であり、条件づけられておらず、いかなる道によっても接近不可能であるので、組織できません。また、人々をどの特定の道に導いたり、強制したりするために、どの組織も形成されるべきではありません。あなたは、初めにそれを理解するなら、信念を組織することが、いかに不可能であるかが、分かるでしょう。信念は純粋に、個人的な事柄です。あなたは、それを組織できないし、組織してはなりません。あなたがそうするなら、それは死んで、結晶化します。それは、信条、宗派、宗教になります - 他の人たちに賦課されるものに、です。これが、世界中のあらゆる人がしようと試みていることです。真理は、狭められてしまい、弱い人たちのため、瞬間的にのみ不満である人たちのための玩具に、されます。真理は、降ろしてしまえません。むしろ個人が、それへ向上するよう、努力をしなければなりません。あなたは、山頂を谷へ降ろしてしまえません。あなたは、山頂に到達するであろうなら、谷を通り抜け、危険な断崖絶壁を恐れずに、険しい坂を登らなければなりません。

観念と結論は、真理ではない。

あなたは、観念の世界に生きますか。あなたが、観念と結論の世界に生きるなら、それは、真理ではなく、ただ思考の投影だけである。

The Awakening of Intelligence

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あなたが真理を見るなら、それが行為するでしょう。あなたは、蛇が危険であるとの真理を見るなら、真理は、あなたは、行為します。あなたは、断崖絶壁の危険を、見るなら、事実は、それの真理は、あなたは、行為します。あなたは、砒素の真理、毒を見るなら、行為します。あなたは、これが見えますか。または、あなたはやはり、観念の世界に生きますか。あなたが、観念、結論の世界に生きるなら、それは、真理ではありません。それはただ、思考の投影だけです。

真理を発見するように、あなたの精神と心を注ぎなさい。

あなたは、進んでそれに、自分の精神と心全体を、注ごうとするときだけ、真理を発見できます - あなたの楽に余った時間の数瞬間を、ではない。

1946年、オーハイ、講話1(和訳『静けさの発見』)

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真理の解放的作用なしに、自由であるように、なされた努力は、やはり、自己の閉鎖的な壁の中にあります。あなたは、進んでそれに、自分の精神と心全体を、注ごうとするときだけ、真理を発見できます - あなたの楽に余った時間の数瞬間を、ではありません。私たちは、熱心であるなら、真理を見つけるでしょう。しかし、この熱心さは、どの種の刺激にも依存できません。私たちは、自らの十分な深い注意を、私たちの問題の真理の発見に、注がなければなりません - 渋々の数瞬間の間ではなく、常に、です。思考をそれ自体の閉鎖的な過程より、解放するのは、真理ばかりです。

真理は、あなたに与えられない。

真理は、誰かによりあなたに与えられない。あなたがそれを、発見しなくてはいけない。そして、発見するには、そこに直接的な知覚がある、精神の状態が、なければならない。

The First and Last Freedom(和訳『自我の終焉』、『最初で最後の自由』)

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真理は誰かにより、あなたに与えられません。あなたがそれを、発見しなくてはいけません。そして、発見するには、そこに直接的な知覚がある精神の状態が、なければなりません。抵抗、安全装置、保護があるとき、直接的な知覚は、ありません。「有るもの」に気づいているのをとおして、理解は来ます。「有るもの」、実在のもの、実際のものを、解釈することなく、非難や正当化することなく、それを正しく知ることが、確かに、英知の始まりです。私たちが真理を逃してしまうのは、私たちが自分の条件づけに応じて、自分の先入観に応じて、解釈し、翻訳しはじめるときだけです。結局のところ、それは調査に似ています。或るものが何であるか、それが正しくは何であるかを、知ることは、調査を必要とします - あなたはそれを、自分の気分に応じて翻訳できません。同様に、私たちは、「有るもの」を正しく見つめられ、観察でき、聞け、気づけるなら、そのとき問題は解決されます。それが、私たちがこれらすべての講話において、しようとしていることです。私はあなたに、「有るもの」を、指摘しようとしています - それを、私の思いつきに応じて翻訳しようとしていません。また、あなたはそれを、自分の背景や訓練に応じて翻訳したり、解釈したりすべきでもありません。

暴力

あなたが闘うものに、あなたはなる。

あなたが闘うものに、あなたはなる。

The Book of Life(和訳『四季の瞑想 クリシュナムルティの一日一話』)

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あなたが闘うものに、あなたはなります。私が怒っていて、あなたが怒りをもって、私に会うなら、結果は何ですか。もっと多くの怒りです。あなたは、私なるものになったのです。私が邪悪であり、あなたが邪悪な手段をもって、私と闘うなら、そのときあなたもまた、邪悪になります - あなたがいかに正義だと感じようとも、です。私が残忍であり、あなたが私に打ち勝つために、残忍な方法を使うなら、そのときあなたは、私のように残忍になります。これを私たちは、何千年もの間、やってきました。確かに、憎しみによって憎しみに応えるより、違った接近があるのです。私が、自分自身の中の怒りを鎮めるために、暴力的な方法を使うなら、そのとき私は、正しい目的のために、間違った手段を使っています。それにより、正しい目的は、なくなってしまいます。ここには、何の理解もありません。怒りを超越することも、ありません。怒りは、忍耐強く研究され、理解されるべきです。それは、暴力的な手段をとおして、打ち勝たれるべきではありません。怒りは、多くの原因の結果なのかもしれません。それらを了解することなしには、怒りからの逃避はありません。

私たちは、敵、悪党を創り出してきました。私たち自身が敵になることは、どのようにもけっして憎悪に、終わりをもたらしません。私たちは、憎悪の原因を理解し、私たちの思考、感情、行為によりそれを養うのを、止めなくてはいけません。これは、常なる自己の気づきと智恵ある柔軟性を要求する、難儀な任務です。私たちなるものが、社会であり、国家であるからです。敵と友は、私たちの思考と行為から出てきたものです。私たちは、憎悪を創り出すことに、責任があります。だから、敵方と味方に関心を持つより、私たち自身の思考と行為に気づくほうが、重要です。正しく考えることが、分割を終わりにするからです。愛は、友と敵を超越します。

怒りに対する違った応答

怒っている人物の面前で、もし自分がそれに気づいていて、応答しないのなら、何が起きるかを、見てください。自分が、相手の人物の怒りに気づいて、反応しない瞬間、全く違った応答が、ある。

1980年、オーハイ、質疑応答会合2

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頭脳は、暴力に向き合ったとき、急速な化学的変化を、被ります。それは打撃より、はるかにすばやく反応します。自らの全身が反応するし、即時の応答があります。自らは殴り返さないかもしれませんが、怒りや憎しみの存在こそが、この応答を引き起こすし、作用があります。

怒っている人物の面前で、もし自分がそれに気づいていて、応答しないのなら、何が起きるかを、見てください。自分が、相手の人物の怒りに気づいていて、自分自身は反応しない瞬間、全く違った応答が、あるのです。自らの本能は、憎しみへ憎しみにより、怒りへ怒りにより応答することです。化学的に湧き上がるものが、あります - それが組織の中に、神経的反応を創り出します。しかし、怒りの面前で、これらを鎮めてください。すると、違った作用が、起こります。

憎しみは、憎しみを進める。

憎しみから生まれた行為は、さらなる憎しみを、創り出せるだけだ。

The Book of Life(和訳同上)

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私たちはみんな、きっと怒りを抑止しようとしてきたと、私は思いますが、それはどうやら、それを解消しないように思われます。怒りを消散させるには、違った接近が、ありますか。怒りは、物理的や心理的な原因から、発するかもしれません。自らは怒っています - おそらく、自分はじゃまをされたり、自分の防衛的反応が、崩されつつあったり、気をつけて築き上げられてきた自分の安全が、脅かされつつあったりするから、などです。私たちはみんな、怒りに親しんでいます。自らはいかに、怒りを理解し、解消させるべきですか。あなたが、自分の信念、概念、意見が、一番重要であると考えるなら、問われたとき、あなたは必ず、暴力的に反応することになります。信念、意見に縋りつく代わりに、あなたが、それらが生への自分の了解にとって本質的であるのかどうかを、問いはじめるなら、その原因の理解をとおして、怒りの停止が、あります。かくして、葛藤、抗争と痛みを引き起こす自分の抵抗を、解消しはじめます。これはまたもや、熱心さを必要とします。私たちは、社会学的や宗教的な理由のため、または便宜のために、自分自身を制御することに、慣れていますが、怒りを根こそぎにするには、深い気づきが、必要とされます。

あなたは、不正義について聞くとき、自分は怒っていると、言います。それは、あなたが人類を愛しているから、あなたが慈悲深いからですか。慈悲と怒りは、一緒に居ますか。怒り、憎しみがあるとき、正義がありえますか。あなたはおそらく、一般的な不正義、残酷さを考えて、怒っていますが、あなたの怒りは、不正義や残酷さを変更しません。それはただ、害をなしうるだけです。秩序をもたらすには、あなた自身が、思慮深く、慈悲深くなくてはなりません。憎しみから生まれた行為は、さらなる憎しみを、創り出せるだけです。怒りがあるところ、正義はありえません。正義と怒りは、一緒に居られません。

あなたが自分自身を分離するとき、それは暴力を生み育てる。

あなたが、信念、民族性、国籍、伝統により自分自身を分離するとき、それは暴力を生み育てる。だから、暴力を理解しようとしている人は、どの国、宗教、政党にも所属しないで、人類の全的な理解に、関心を持つ。

Freedom From the Known(和訳『自己変革の方法』、『既知からの自由』)

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あなたは自分自身を、インド人とか、イスラム教徒とか、キリスト教徒とか、ヨーロッパ人とか、他の何とでも、呼ぶとき、暴力的でいるのです。あなたは、なぜそれが暴力的であるのかが、分かりますか。なぜなら、あなたは自分自身を、残りの人類より分離しつつあるからです。あなたが、信念により、民族性、国籍により、伝統により自分自身を分離するとき、それは暴力を生み育てます。だから、暴力を理解しようとしている人は、どの国にも、どの宗教にも、どの政党や部分的な体制にも、所属していません。彼は、人類の全的な理解に、関心を持っています。

さて、暴力に関しては、二つの主要な思考の流派が、あります。一つは、「暴力は、人に生まれつきである」と言うものです。もう一つは、「暴力は、人が生きるところの社会的と文化的な遺産の結果である」と言うものです。私たちは、自分たちがどちらの流派に所属しているのかに、関心を持っていません - それは、何の重要性もありません。重要なのは、私たちが暴力的であるとの事実です - その理由ではありません。

私たちは暴力を乗り越えられるのか。

私たちは、暴力をどう見つめるかを、知るなら - ただ社会の中で外的に、戦争、暴動、民族的な敵対と階級闘争を、だけではない。また私たち自身の中でも、だ - そのとき、おそらく私たちは、それを乗り越えることができるだろう。

Freedom From the Known(和訳同上)

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私たちは、暴力をどう見つめるかを、知るなら - ただ社会の中で外的に、戦争、暴動、民族的な敵対と階級闘争を、だけではない。また私たち自身の中でも、だ - そのときおそらく私たちは、それを乗り越えることができるだろう。ここに、とても複雑な問題がある。何世紀に何世紀もの間、人は暴力的であった。世界中で宗教は、人を飼い慣らそうとしてきたが、それらのどれ一つとして、成功したことがない。だから、私たちは、その問いに入ろうとしているなら、少なくとも、それについてきわめて真剣でなければならないと、私には思われる。なぜなら、それは私たちを、全く異なった領域の中へ、導くだろうからだ。しかし、私たちが単に、知的な娯楽のために、問題を玩びたいだけなら、私たちは、あまり遠くへ到らないだろう。あなたは、自分自身はその問題についてとても真剣であるが、世の中の、他の多くの人々が真剣ではないし、それについて何をする準備もできていないかぎり、自分が何をしても、何になるのかと、感じるかもしれない。私は、彼らがそれを真剣に取るのか取らないのかを、気にしない。私はそれを真剣に取る - それで十分だ。私は、弟の番人ではない。私自身は、人間として、この暴力の問いについて、とても強く感じる。そして私は、私自身において自分が暴力的でないように、見届けるだろう。だが、私はあなたや他の誰に対しても、「暴力的であるな」とは語れない。それは何の意味もない - あなた自身がそれを望むのでなければ、だ。